「おなら」を「盃」と知ったかぶりをした和尚の顚末
さあ、そこで登場するのが落語なのです!(なんだか通販番組みたいになってきましたな)
かような知ったかぶりを笑うのは実は落語の専門分野でして、知識のひけらかしによって露呈された愚かさこそ笑いの対象だと言わんばかりに古今東西の落語家たちは多数のネタを受け継いできたのです。
「転失気」という前座ネタがあります。あらすじはこうです。
知ったかぶりをする和尚が医者に往診に来てもらう。医者は和尚に「転失気はあるか」と聞くが、和尚はその意味が分からず知ったかぶって「今日はない」という。医者が帰った後、小僧の珍念に「転失気は何か調べてこい」という。珍念は薬をもらいに医者に行きその意味を聞くと「転失気とは中国の医学用語で『おなら』のことだ」と説明される。珍念はふざけて「転失気とは、盃のことです」と和尚に嘘を教えたから大変。翌日、医者と和尚との会話が芸人・アンジャッシュのコントのようにかみ合わない。和尚は「箱に入った自慢の転失気を見せたい!」、先生は「いや見せないでもいい!」などと言い出す……。
わかりやすい前座ネタですが、この落語のほかにも、「千早振る」という落語では、「千早振る神代も聞かず竜田川からくれないに水くくるとは」という歌の訳を問われた方が、「竜田川は江戸時代に活躍した相撲取りだ」などと強弁をしたり、豆腐の腐ったのを「ちりとてちんという台湾の名物だ」などとしたりと枚挙に暇がありません。
もしかしたら、令和の現代のみならず江戸時代からこの国は「知らないことが恥になる」という情弱が侮蔑される社会だったのかもしれません。だからこそ知ったかぶりが笑われるような風土というか合意形成が培われているのだとしたら、まさにこんな時代こそ落語を聴き直すべきなのではと確信します。
「マウンティング」は昔から実はあったのです。そう思うことで、する方・される方にも優しくなれるかもしれません。
ギスギスした現代社会に生きる人にこそ、落語を。そして私の本を(笑)。