クリントン氏は天才的な演説家で、言葉の選び方や遊び方が抜群に上手い。今回の演説ではまず「example of power」、武力の実例をもって相手を抑えつけるのがブッシュ共和党の手法だと批判。そのうえで「power of example」、つまり武力に頼るのではなく、他の国が真似できないような実例を見せつけてアメリカのパワーにすべきである、と訴えたのだ。黒人で片親、決して裕福ではなく奨学金で大学に通い、政治的にほとんど無名の人間がアメリカの大統領になる、これこそがアメリカの「power of example」ではないか――と。
つまり、「power」と「example」を入れ替えただけで、共和党と民主党の違いを見事に言い当ててみせ、オバマ氏を大統領に選ばないとアメリカ人はいつまでも後悔することになると示唆したのだ。ロゴスの持つ力を知り尽くした人にしかできないマネである。シンプルで力強い演説に、聴衆は興奮してしばらく拍手が鳴りやまなかった。
この党大会を締めくくったのが「アメリカの約束」と題されたオバマ氏の指名受諾演説。こちらもリンカーンかケネディの再来と思われるほどの名演説で、聴衆を熱狂の渦に巻き込んでいた。まさに言葉の力。国家のリーダーが民衆を説得してその気にさせ、民衆もそのレトリックの意味を100%理解して呼応、そしてそれに基づいて投票する。ギリシャ時代のアゴラ(政治や経済などを議論する広場)そのものがいまだ通用する国があるのだ。
国家の存亡招く家業としての宰相
その3日後に日本で起きたのが福田康夫首相の辞任。あのボショボショした辞任会見を聞くにつけ、リーダーシップ教育をしている国としていない国の彼我の差を思い知らされた。安倍晋三前政権といい今回といい、辞任の言い分が理屈になっていない。何のための内閣改造だったのか。だったら最初から立ち上がるなよ、と言いたくなる。
結局「家業としての宰相」なのである。安倍氏の場合、祖父の岸信介氏、その弟の佐藤栄作氏が総理大臣を務め、父親の安倍晋太郎氏も主要閣僚を歴任しつつ志半ばで他界した。だから身内や取り巻きは何としても3代目を総理大臣にしたかったし、当人もならなければいけないと思っていた。つまり安倍一族にとって総理大臣は家業なのだ。