大学生のTOEIC受験が象徴すること
【内田】学生たちが雪崩うってTOEICのテストを受けだしたのは、あるときから英語運用能力が学力の「ものさし」になったからです。そうなると、フランス語や中国語やアラビア語をやっている学生は「査定対象外」に弾き飛ばされる。「査定対象外」ということは実質的には「0点」ということです。学生たちは「0点」じゃたまらないから、「みんながしている」活動で、数値的な優劣を競うようになった。そうやってアカデミアから一気に多様性と自由が失われた。見ず知らずの他人がしていることについても、いちいちあら探しして、揚げ足をとる人間が出て来たのも、その頃からですね。貧乏になるとそうなるんです。勢いがあるときは自分のことに夢中で、人のことなんか目に入らないんですけれど、落ち目の時代、「査定」の時代になると、自分はやりたいことがないし、やりたくてもできないので、結局他人の足をひっぱることが仕事になってしまう。「日本も落ちるところまで落ちたなあ」と感じたのは、少し前に僕のツイッターに「鰻を食べた」と書いて写真を上げたら、「そんなことを自慢するな。貧しい人間の気持ちがわからないのか」と怒られたときです。ただの鰻ですよ(笑)。「ああ、日本も終わったな」と思いましたね、本当に。60年代、70年代は今より貧乏でしたけれど、そんな「せこい」ことを言う人はいなかったですよ。
「伊丹十三みたいな人」を許さない世の中
【内田】伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』は1965年の本ですが、その中で伊丹はスパゲッティの食べ方や、アーティチョークの料理法や、高級車の発注の仕方などについて蘊蓄を傾けているわけです。こっちは「アルデンテ」も「ジャギュア」も知らない敗戦国の子どもでしたけれど、それを読んで嫉妬するということはまったくなかった。ああ、敗戦国日本からもついにこのような国際派が登場してきたのか、うれしいな、誇らしいなあというのが素朴な印象でした。伊丹十三のハイエンドな暮らしぶりを「わがこと」のように喜んだ。でも、もし今「伊丹十三みたいな人」が出てきて、『ヨーロッパ退屈日記』みたいな本を書いたら、「けっ、自分ばかりいい思いしやがって」という嫉妬と罵倒のリプライが殺到するんじゃないかな。
【岩田】同感です。