「次の次の段階」は誰にも予想できない
先例がない遷移については、遷移の次の段階までは予測できても、次の次の段階までは予測不可能だからである。マルクスは、「空想から科学へ」を標榜しながら、次の段階の科学的な予測に、次の次の段階への願望を混ぜ合わせるという過誤を犯している。そして、彼のいう科学には、この空想の部分が豊かにあったがために、いつまでも魅力というよりは魔力を持ちつづけてこられたのである。
たとえば、進化史という遷移系列の未来を考えてみよう。現在の環境変化の進行から、優占種の交代が行われるとき、次なる優占種はいかなるものであるかについては、ほぼ科学的な予測ができる。次代の優占種は必ず先代の優占種の内部あるいはその近縁のものから生まれてくる。
だから、現代の最優占種たる人類と昆虫類から生まれてくる超人類、超昆虫類がそれになるにちがいない。では、その次はどうか? これはもう予測不可能である。彼らが営む生活、それによる環境変化がいかなるものになるか、われわれには何の資料もないからである。
それをマルクスの偉大さというならば、マルクスの偉大さは社会史においてこの予測不可能の地点までだんびら振りかざして斬り込んでみせたことにある。
遷移系列は「ローカル」に進む
もう一つ遷移について知っておかねばならないことは、遷移系列は決して普遍的なものではなく、ローカル性があることである。
気候一つとっても、環境はローカルによって個別性を持っている。また、同じ気候区にあっても、砂丘の上に展開される遷移系列と、内陸部で展開される遷移系列とではおのずから異なってくるのは当然である。
社会的な遷移についても同じことがいえるだろう。マルクスの嫡子たるべきヨーロッパ社会主義はついに誕生せず、ヨーロッパ社会はすでに別の遷移系列をたどりはじめている。それを正確に跡づけて未来を予測している人は誰もいないが、ヨーロッパ社会の次代の相貌は、この社会が現在内包しているものを分析することによってのみ知られるのであって、マルクスに帰ることによってではないのは明らかである。
マルクスの巨大な二人の庶子、ロシア社会主義と、毛沢東主義は、それぞれローカル色豊かな別の遷移系列を歩みはじめている。両者の次の遷移段階が、いついかなる形でやってくるのか、もう少し時間がたたないことには、誰にもわかるまい。暴力的になされた環境変化が定着して、現在の優占種に代わる新しい種を生むには、まだ時間が必要だろうからである。