新型コロナウイルスはわれわれの生活を大きく変えた。人類は自然をコントロールできるという考えは幻想だったのだろうか。「知の巨人」として知られる作家の立花隆さんは、49年前のデビュー作『思考の技術』で、「人間は進歩という概念を盲目的に信じすぎている」として、生態学に学ぶ思考法を伝えている。その一部を特別に紹介しよう――。

※本稿は、立花隆『新装版 思考の技術』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

世界の変化と地球温暖化
写真=iStock.com/Boonyachoat
※写真はイメージです

自然は「数量化できない要素」に満ち満ちている

自然は、われわれがとらえたと思っているものより、常により広く、より深い。――私はここで“自然”ということばを、自然科学が対象とする自然よりも広い意味で使っている。自然というよりは、現実のすべてとでもいったほうがよいかもしれない。

自然をとらえようとするとき、われわれはどんな操作をほどこすだろうか。それは、抽象化、単純化、数量化などである。そのそれぞれの操作のたびごとに、とらえようとした現実の自然はのがれ去り、ゆがめられた自然のモデルが残る。

現実の自然は常に具体的で、無限に複雑かつ多様で、そこには測定不能のもの、つまり数量化できない要素が満ち満ちているのである。人間が直観的に理解できるのは、三次元の空間までである。これを、関数のグラフ化ということと結びつけて考えてみると、人間は三つの座標軸を持った空間の中にある関数しか直観的に把握できないということになる――むろん、直観的な把握ということを抜きにすれば、次元がいくらでも高い位相空間を考えることができるし、それを扱う数学もある。

そこで、自然科学の実験では、多くの因子がかかわる事象でも、他の条件は一定の状態を保ったままで、変量はいつも一つか二つにとどめる。

自然科学だけではない。人間が現実を考察するときは、たいてい可変量を一つか二つにとどめ、残りについては判断中止しておくものである。

小説の恋愛と現実の恋愛が「どこかちがう」理由

恋愛心理小説に登場する人物は、いつも恋愛者として登場してくる。現実の恋愛における登場人物は、生活者である。だから、小説の恋愛における葛藤は、現実の恋愛における葛藤とはどこかちがう。現実の恋人たちの間に起きる葛藤には、二人の生活者としてのすべての背景がからんでいる。

もし、そのすべてを描ききろうと思うなら、一つのできごとを描くためにも、百科事典ほどの紙数が必要になろうし、また、時間的にも空間的にも現実には一点において起きたことを、文章の上では継時的に書いていくという操作を加えなければならないため、結局、支離滅裂のこととなり、読む者には、著者が何を書きたいのかわからないことになってしまうだろう。

だから、どんなに複雑なからみ合いを描いた小説でも、それは数学的にいってみれば、位相空間の事象を三次空間に投影してみたようなものでしかない。また、それでなければ、読者に理解できなくなってしまうのである。――現代小説における“意識の流れ”手法は、文学における位相数学のようなものだが、この手法の追求の果ては、ちょうど純粋数学が、純粋数学者の間にしか理解者を獲得できないところにきてしまったのと同じように、文学マニアの間にしか読者を得られないところまできてしまっているようだ。