人間は、現実を恐れることを忘れてしまった
結局、小説がフィクションでしかありえないのは、それが現実を読者に理解可能な次元にまで投影しなければならないというところにある。
自然科学も、自然のモデル化という投影操作を抜きにできない以上、いかにそれが科学的に見えようとも、現実に対しては、一種のフィクションでしかないのである。
科学の上にたてられた技術も、技術の上にたてられた文明も、同じような意味で壮大なフィクションなのである。文明の中に生きる人間は、いつのまにかフィクションの中に生きることに慣れきってしまって、現実を畏怖することを忘れてしまっている。そして、フィクションと現実との間で、価値観を転倒させてしまっている。
“不純物”ということばがある。かなり悪いイメージを起こさせることばである。しかし、考えてみればすぐにわかることだが、現実の自然界に存在するのは不純物なのである。現実にあるものを、現実にあるがままには理解できず、かつそのままでは利用するだけの技術を持つことができなかった人間が、自分に理解できかつ操作できるような形に現実のものを変えた結果としてでてきたのが、純粋なものなのである。
理論は常に純粋なものを扱うが、技術はものを現実に操作する必要上、かなり純度の低いものまで扱う。ここで現われてくるギャップが、いわゆる理論と実践のギャップであり、技術の面でいえば、工業化、企業化にともなう公害などの問題である。
純粋な人間の代名詞のごとく使われている『白痴』のムイシュキン公爵はついに狂気に取りつかれざるをえなかった。純粋さの上にたてられてきた文明も、発狂寸前の段階にきている。われわれはもっと不純になり、不純なものの扱い方を学ばねばならない。
「ムダ」を「ムダ」としか見ない人間の恥ずかしさ
悪いイメージのことばとして、“ムダ”、“ムラ”ということばがある。企業での生産性向上運動というと、すぐにこの二つの追放がスローガンにかかげられる。
これまた、身の回りどんな現実でもながめてみればすぐにわかることだが、現実はムダとムラに満ち満ちている。これに対して、人間の作ったものは、ムラなくムダなく、実にスッキリと、合理的にできている。まるで、自然の作るものよりは、人間の作ったもののほうが、はるかに上等なものであるかのように見える。だが、これまた人間の価値観の狂いにほかならない。
生態学がいくつかの面で解き明かしたように、現実の自然においては、ムダなものは一つもない。ムラと見えるものも、そのムラさ加減は現実の要請に従ったムラさ加減であるという意味で、逆に現実的には最も整然としたものであるといえるのである。
人間はむしろ、ムダがムダとしか見えず、ムラがムラとしか見えない自分を恥ずべきなのである。逆に、一見ムダなしと見えた人工システムが実は恐るべきムダをはらんでいるということを知るべきである。人工システムの合理性は、そのシステムの内部だけでの一面的な合理性である。トータルシステムとのかかわりの中で検討してみると、それがとんでもなく非合理であることがしばしばある。