「数量化できないもの」へのチエを忘れている
公害企業は、企業の合理性の追求によって公害を生む。その結果は、人類全体にとって、むしばまれた健康、自然環境の破壊、ひいては人類の生存基盤の危機という恐るべきムダを与えている。もっと視点をしぼって、その企業の得失だけを考えてみても、企業イメージの悪化、それによる労働市場での不人気、社内のモラルの低下、公害防止のための予期せぬ出費などで、はじめから公害防止の経費をかけていた場合よりも多くの損失を出しているはずである。
なぜ、小さなムダは見えても、大きなムダが見えなかったのか?
それは合理性の追求が一面的だったからである。公害産業の場合には、経済主義的な合理性の追求がそれに当たる。しかし、より根源的には、現代文明の根幹にアルゴリズムがあるからではなかろうか? どうもわれわれは数えられる合理性しか知らないできたようだ。
数量化できないものを恐れることと、数量化できないものに対処するチエを忘れていたようだ。
われわれがいま学ばねばならないのは、プロローグで紹介した包丁の刀さばきのように、自然の骨と肉のスジにそって文明という刀を走らせることである。アルゴリズム合理主義の砦による陣地戦ではなく、自然という“敵”の動きに応じて動く、ゲリラ戦術である。そして、合理主義を根底から検討し直す必要である。
「進歩」は破局に向かい、速度をはやめている
同じように、進歩という概念についても、われわれはもう一度考え直さなければならない。
進歩とは、目的論的な方向性をもった変化のはずである。人間が進歩ということばを用いるケースをいくつか検討してみよう。漢字の読み書き能力の進歩、料理の腕前の進歩、よりこわれにくい時計を作る技術の進歩……こういった目的が明確に設定されている進歩はよい。だが、こうした日常的な、ミクロの進歩のベクトルの総和がどちらを向いているのか、その到達地点であるマクロの目的についての構想はあるのか――誰もそれを考えていないようである。
どうやら、人間はこの点に関しては予定調和の幻想に酔っているらしいのだが、現実には文明のベクトルは予定破局に向かっているような気がしてならない。そしてなお憂うべきことは、このベクトルの長さ、つまり速度がますますはやまりつつあることである。