パチンコ叩きとは何だった
いま思えば、あのパチンコ叩きとは何だったのか。当初コロナとは無関係だったはずが、なぜかパチンコそのものの善悪の話となった。パチンコ産業はしたたかで強かったが、いわれなき善悪に追い詰められるのがひとりの人間だったらどうなるかを、私たちはひとりの女の子の死で知ったはずだ。社会不安と鬱憤は、最終的に人間そのものにぶつけられる。アメリカはまさに現在進行系でその憎悪と分断の地獄に落ちようとしている。
私たちはこの「コロナ後」において、あの日本社会を、ネット全体を覆った空気は何だったのか、止められなかったのかをいま一度思い返し、おのおのが考え直さなければならない。なぜなら「コロナ後」と書いたが、これに「第1次」と付くかもしれないのだ。第2波が訪れた時、このままではまた同じ轍を踏むこととなるだろう。
コロナウイルスは誰しも罹る可能性があり、自覚がなくともすでに罹っているかもしれないという未知のウイルスだ。パチンコ店幹部の彼の「クラスターはなかった」はもちろん過去形であり、これから起こるかもしれないのは当然だ。気をつけていても、万全を尽くしてもそれは起こるかもしれない。サッカー選手しかり、野球選手しかり、局アナしかり。それでも理由をつけて叩く、コロナより人間が怖いなんて! そんな社会では未知の疫病と戦えなどしないし、私たちがそのような姿勢では、最前線の医療従事者や矢面に立たざるを得ない、罹ってしまうかもしれないエッセンシャルワーカーの方々からの信頼も得られない。私たちは彼らに信頼していただかなくてはいけない立場だ。
もう叩く対象は次に移っている
全国の緊急事態宣言が解除された日はコロナに殺された人間だけでなく、数日前に人間の言葉に殺された女の子に対する鎮魂の日ともなった。コロナに命を奪われた志村けんさんの死から、人間に命を奪われた女の子の死へ。疫禍は人心を荒廃させ、人間の本性を露わにした。何をわめこうと、これが私たちの現実である。
パチンコ店にクラスターはなかった。そしてコロナ以上に怖いのは人間だった。パチンコがメインターゲットからは外れた今、懲りずに次の獲物を捕捉したやからが、またぞろSNSに蠢いている。特定業種が叩かれているうちはマシだったのかもしれない。もう叩く対象は人間に移っている。これもまた、私たち日本人の悲しい現実である。