そんな中、検察組織のナンバー2で、次期検事総長候補と言われていた黒川さんが1000点100円以内の賭け金で、(元)新聞記者たちと賭けマージャンをやっていたところ、その程度の金額では刑事上は問題ないとして、検事総長による訓告処分だけで終わった。

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建前を国民に強要してきた張本人の検察組織が、自分たちの身内が建前に引っかかったら、今度は本音を持ち出して、見逃しをはかる。

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これはもう法治国家じゃない。権力側が法を都合のいいように扱う人治国家、そう北朝鮮と何ら変わんないよ!

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自粛しないだけで非国民扱い……これでは戦時中と変わらない

権力側が自分たちに都合のいいようなことをやっているにもかかわらず、日本国民は国家権力に対して従順だ。

5月25日、新型コロナ感染症に対する緊急事態宣言は、すべての都道府県において解除されると発表された。これから社会経済活動が再開する。

ところが、緊急事態宣言が解除されたというのに、まだ一部営業の自由の制限は残り、社会経済活動の再開は徐々に進めていくという感じだ。

確かに感染の爆発的拡大を防ぐという目的において、徐々に再開を進めていくという政治行政の意図はわかる。

しかし、緊急事態宣言が解除された後の、国民の営業の自由の制限は、いったいどんな法律に基づくのか?

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さらにそもそも特措法が適用されていなかった3月上旬においては、政治行政は、法律に基づかない自粛の「お願い」をバンバンやっていた。3月の外出自粛要請もイベント中止要請も法律に基づかない「お願い」だったんだよね。

この「お願い」によってイベントは次々に中止に追い込まれ、イベント主催者や事業者は多額の損失を被った。

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国民にとって一番重要なのは、政治行政の「お願い」というものに、国民はどこまで従わなければならないのか? ということ。ここがポイントなのに、国会もメディアも学者もまったく的外れな議論を展開していた。

結論としては、従うも従わないも国民の自由なんだ。この大前提が、今の日本国内において理解されていない。

政治行政からの自粛・営業停止の「お願い」について、国民が従うか従わないかは自由だからこそ、仮に国民が従ってお店を閉めても政治行政から補償は出ない。それは、あなたが自分の意思でお店を閉めただけでしょ? となってしまう。

これで本当にいいのか、というのが僕の問題意識の根本だ。

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先の戦争によって政府が国民に多大な犠牲を被らせたことを大反省して、日本国憲法が作られた。戦争当時は国家の利益のために、国民の権利、自由、そして命までもが簡単に犠牲にされたが、今後はそんなことにならないように、国民の権利、自由をしっかりと保障し、みだりに国家権力がそれを侵すことができないような法体系を作った。

そして戦後教育において、国民の権利、自由の大切さや、そのために国家権力は憲法や法律によって制限を受けることを、僕らは散々習ってきた。

ところが、だ。

いざ、新型コロナウイルスの感染危機に直面すると、国民の権利、自由がなんと軽く扱われることか。なんの根拠に基づくのかわからない政治行政からの「お願い」に、国民は必ず従わなければならない「空気」が作られる。

政治行政からの自粛要請に従わなければ、非国民扱いされて、総バッシングだ。

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開店し続けるお店、イベントを開催し続ける事業者も激しいバッシングを受ける。政治行政からの自粛「お願い」に従うかどうかは、あくまでも国民の「自由」であるにもかかわらず。

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戦時中って、きっとこんな雰囲気だったんだろうね。お国のために国民は犠牲になれ! お国に従わない者は非国民だ!

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