「縁起でもない!」と塩をまかれた営業マン時代

福岡県八幡市(現北九州市)に生まれ、祖父母や叔母などを含む10人家族の大所帯で育った。家は飼料や米などを販売しており、小南は2人兄弟の長男。「何せ家族が多いもんですから。色々あっても、仲良くしないと生活していけなかった」と振り返る。

剣道着を着てほほ笑む男性
提供=小南英之さん

地元の高校では剣道部に所属していたが、クラスメートとつるむことはほとんどなかった。「みんなと同じ格好はしていたんですけれど……。群れるのが得意じゃないんですよね、昔から」。県内の大学を卒業した後、新卒で仏具店の「はせがわ」に入社した。最初の仕事は手あたり次第に家を訪ねて仏壇を売る“飛び込み営業”だったが、これが口下手な小南にとって過酷だった。

「『縁起でもない!』と塩をまかれたこともありますよ。でもね、あの仕事で僕は頭の下げ方を覚えたんです。いくら断られても『僕は馬鹿ですから難しいことは分からないけれど、僕の優秀なチーフには会ってください』とひたすらお願いしました」。セールストークができないことは致命傷になりえたが、体力だけはあった。せめてロウソクはいかがですかと、ひたすら足を使った。

徐々にだが、不器用でも正直な心持ちが評価されるようになり、所属する百貨店の店舗では一時トップの成績を収めるまでに至った。しかし、仏具という特殊な商品で毎回のように厳しいノルマを達成することは難しい。小南は約4年勤めたはせがわを退職した。

大合併した北九州市に目立った名物はなかった

その後は地元に戻って家業を継いだが、店じまいを機に40歳で市内にある病院の設備メンテナンスの仕事に就く。全国に病院やリハビリ施設を展開していたため、3カ月は研修期間として茨城県で過ごした時期もあった。1社目ほどではないものの給料は申し分なかったが、前職でも一度転勤で県外へ出たことのある小南の中に、ずっと引っかかっている思いがあった。

何か、地元の魅力を発信するような仕事ができないか。

駅弁当かしわめし
撮影=鍋田広一

北九州市は1963年に小南の育った八幡市を含む5市が大合併し、政令指定都市になった歴史を持つ。しかし、工業地帯として成長を遂げた街には、目立った名物や特産品がなかった。小南が大学時代に新幹線でお土産を売るアルバイトをしていたときも、あったのは博多発の辛子明太子や広島県産のもみじ饅頭ばかり。市の中心地・小倉の食べ物はなく悲しかった。

メンテナンスをする対象は病棟から売店まで幅広いが、営業としてあくせく歩き回っていたころのような達成感や高揚感はあまりなかった。「不器用で、能がないもんやから」。そう困ったように笑う表情とは裏腹に、仏具店時代の大変ながらに感じた“人との出会いを大切にしたい”という思いは、忘れることができなかった。

10年近く勤めたが、ここも結局、辞めてしまう。