素晴らしいと思ったポイントは2つ。まず公共のために個人の権利を制限すること。もう1つは、開発する具体的な地名をあげなかったことでした。

都市政策大綱ができた背景には、田中の長所である膨大な法律の知識があったでしょう。田中は、議員立法で33本の法律を成立させています。堺屋太一さんに言わせると、これは途轍もないことだそうです。新しい法律をつくるには、それまでの法律を全部理解していないといけません。だから専門分野の官僚が必死に勉強してつくるのが普通。それを尋常高等小学校卒の田中がやったのはすごいと。

後の話ですが、本人に「どうしてそんなに法律を知っているのか」と聞いたことがあります。すると、彼は子どものころから吃音症で、それを治すために毎朝畑で六法全書を読み上げるうちに暗記したと教えてくれました。

田中が衆議院議員に初当選したときの首相は、吉田茂です。吉田は、いつも六法全書を脇に抱える田中をからかうつもりで法律の条文を3つ尋ねた。全部答えたことに感心して、当選1回なのに法務政務次官にしたという逸話もありましたね。

さて、類いまれな構想力と法律知識を背景に都市政策大綱をつくった田中は、それを下敷きに『日本列島改造論』を72年に書き、同書は大ベストセラーになります。ただ、都市政策大綱と違うのは、公共のために個人の権利を制限すると言わなくなり、開発の具体的な地名をあげたこと。秘書の早坂茂三らが反対したら、「これは医者の処方箋だ。処方箋は患者を喜ばせないといけない。列島改造論も国民を喜ばせるものだ」と答えたそうです。

直後の総裁選で勝って、田中は総理大臣になります。しかし、開発する地名を出したことで地価が上がり、インフレに。国民の間で疑問が起き始めたところに73年秋に第四次中東戦争が起きて石油ショックです。石油の価格が5倍に上がって悪性インフレになり、田中の政治は金権政治だと批判が沸き起こりました。

田中がくれた茶封筒、厚みから100万円は入っていたと思います

それまでは田中のやり方を悪く言う人はいませんでした。田中のライバルは東大卒で大蔵省出身の福田赳夫。福田を囲む会は当時政財界に34もありました。それに対して、田中は「俺は新潟県人会と二田小学校の同窓会しかない。だから自分で井戸を掘らないといけない」といって自分でお金をつくっていました。それで他の政治家の面倒を見る。社会党の政治家にも渡していたし、その政治家が裏切っても怒らない。それは支持が増えますよ。

田中角栄と同時代のライバルたち

そのころ福田派だった亀井静香は、「田中派は軍隊だ」と評しました。田中の言うことは聞かなくてはいけないが、選挙のお金の面倒も見てくれる。一方、福田派は単なるサロン。福田は何もしてくれないから、結局、田中に頼みにいかなくてはいけないと。

ところが、石油ショックを契機に国民はそれを許さなくなった。その後の参院選でも大敗です。