世界情勢に通じ「武士の世の終わり」を早くから見抜いていたが
幕末期に越後長岡藩家老を務めた河井継之助は、世界情勢に通じていたうえ、近代思想に基づく独自の構想を実践できる卓抜した行動力の持ち主でした。もし生まれた場所が違っていたら、彼が坂本龍馬のような役割を演じていたかもしれません。しかし河井は、「譜代大名の家老」という立場を生き切ります。幕末の動乱のなか、徳川幕府を「賊」呼ばわりする薩長の新政府とは距離を置き、東西間の武装中立を画策。それが叶わぬとみるや新政府軍と戦い、武士としての義に殉じました。
河井は長岡藩の中級藩士の家の生まれ。若年から度々遊学し、31歳で家督を継いだ後も、備中松山藩の財政を立て直した儒家・陽明学者の山田方谷に学びました。帰藩した後は藩主・牧野忠恭の信頼を得て、藩政改革と西洋式の兵制改革を進めます。河井は「民を安んじる」ため、近代兵器による武装中立という路線を選んだのです。そして慶応4年、戊辰戦争が起こったその年に家老になり、最後は軍事総督として佐幕派・奥羽越同盟軍を率います。
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