創意工夫の原点は劇団の運営
山田が社員のコスト意識を高めさせるベースとなっているものが「常に考えろ」、それも変わっていて「世間や業界とは反対のことを常に考えろ」である。だが、そこにたどりつくまでに、山田は通常のビジネスマン生活では考えられないような紆余曲折を経てきた。
1931年生まれの山田は旧制中学卒業後、地元の岐阜で父親が経営する電線メーカーに入社した。しかし、芝居好きが高じて劇団を旗揚げする。そして、昼間は会社員、オフタイムは舞台監督として、配役から照明、音響、衣裳など公演に関する全責任を負うようになった。
とはいえ劇団の収入は乏しく、山田は自分のサラリーのほとんどを注ぎ込む。だが、それでも賄い切れない。衣裳や舞台装置は手づくりが当たり前。そこで山田が考えついたのが「何をすべきか、常に考えろ」。少しでも倹約しながらいい舞台をつくるため、俳優、大道具など役割に関係なく劇団の全員が知恵と体両方の汗をかくよう仕向けた。そうした劇団時代の創意工夫が経営の原点となった。
山田は劇団にのめり込んだことを理由に父親に勘当され、65年に劇団を断念、現在の会社を創業する。しかし、当時の電設資材市場は松下電工だけでシェア75%を持つ寡占状態。同じことをしていたのではダメ。そこで閃いたのが、世間や業界の常識とは逆をいくことだった。
その最たる例が年間140日の休日、一切残業禁止という、大企業でも常識外れの労働環境の整備である。「人を雇えないから残業させるというのは間違い。25%の割増金を払って利益を出せる会社がどのくらいあるのか」と山田は指摘する。そして、限られた人数でどう生産性を上げ、コストダウンを図るかに山田は頭を切り替えていった。
いま、どの社員に聞いても「こんなに働きやすい会社はない」という。それだけに、会社を存続させようとコストダウンを常に考え、様々なアイデアを生み出す。だから、コピー機の前に行列ができることもない。会議の資料は事前の回覧で済ませ、必要な部分はメモを取っておく。内容があらかじめ理解されるため、会議の効率もアップした。蛍光灯の名札も社員の発案によるものだ。