唯一無二の存在になりたかった
武中は1961年5月に兵庫県加東市で生まれた。最初の挫折は高校に進学した後、野球部を覗いたときのことだ。小学生から投手だった武中は高校でも野球部に入り、甲子園を目指すつもりだった。しかし、自分の力量ではとても歯が立たないと悟ったのだ。
そこから3年間、勉強に集中することになった。私は身の程を知れる人間なんです、と武中は自己分析する。
「世の中に頭の切れる人はいっぱいいます。そういう人は、すべてが一瞬に頭の中に入ってくる。凡人はどうしたらよいのか、どうしたらその差を埋めることができるのか。時間を掛けるしかないんです」
頭の切れる人が1時間でやるなら、自分は2時間でやればよい、そう武中は思いながら机に向かった。そして現役で山口大学医学部に合格している。
入学後は医学部の準硬式野球部に入った。大学6年間は、ほんと野球漬け、勉強は試験直前以外はほとんどしていない、試験はいつもカツカツ、と笑った。
大学卒業が近づき、専門科目を決める時期になった。5年次、頭に浮かべていたのは消化器内科だった。
「ある分野で、抜けた存在になりたかった。内視鏡に興味があったんです。でも1年間迷って、なぜか決めきれなかった。消化器内科に進もうか、別の科に進もうかと。そのとき、ふと頭をよぎったんです、俺、どうして医者の道を選んだのかって」
そこで母親が亡くなった、あの3月の寒い日が突然浮かび上がってきたのだ。
「1日で泌尿器科に決めました。消化器内科って最もメジャーな診療科で、多くの医師が在籍している。そこで頭抜けるって大変じゃないですか。当時、泌尿器科っていうのは、どちらかというとマイナー診療科で他の診療科と比べたら歴史が浅い。少し頑張ったら、唯一無二の存在になれるのでは、という考えもあった」
大手商社入社1年目、同じ年のがん患者に出会って
1986年、武中は神戸大学医学部附属病院で研修医として働きはじめた。神戸大学を選んだのは癌治療を得意としていたからだ。その直後、一人の患者に出会っている。
「有名大学を出て、大手商社に入社1年目の患者だった。私と全く同じ年。秋の定期検診で胸部レントゲンを撮ったら、肺に巨大な多発陰影が発見された。肝臓やリンパ節にも同様の陰影がある。精巣癌多発転移で、進行度は最も進んだステージⅢCだったんです」
精巣癌とは男性の精巣にできる癌である。若年者に多く発症し、進行スピードが極めて速いことが特徴だ。彼の場合、入社前の健康診断では異変は見つからなかった。一気に癌が広がっていたのだ。
「多臓器転移で、腫瘍も巨大。研修医の自分としては、予後はよく持って1年以内と思った。一般的な固形癌なら、百パーセント根治は無理。彼の場合、超大量の抗がん剤で腫瘍を縮小させ、残存した肺、肝、リンパ節転移巣は切除した。難しいのは薬剤の量。副作用を考えて減量すると効果は不十分。しかし、増量しすぎると、副作用で命を落とす。本当に紙一重。泌尿器科は、抗がん剤投与も腫瘍切除も両方自科で行う。治療に時間のロスがない。彼の場合はすべて上手くいった」
同時期、精巣癌で亡くなった患者もいた。医師の判断は人の命に直接関わることなのだ、と自分の仕事の重みをつくづく思い知った。そして母親のことが頭に浮かんできたのだ。
「どうして命を落としたのか、あのときにもう少し何かやっておけば延命できたのでは、って。私には記憶もないし、父親も覚えていないから治療が適切であったかどうかの判断材料はないのですが」
だからこそ、と武中は語気を強める。
「あの時こうしたらよかったとか、妥協は1ミリもしたくない。それが私のポリシーです。もちろん手を尽くしても結果がよくなるとは限らない。でも、自分の気持ちのなかに妥協は一切残したくないんです」