伊勢はパワースポットの鑑
私は神社に参拝し、再び別のタクシーに。すると今度の運転手は私にこう問うた。
「金剛證寺には行かれました?」
——いや、行ってません。
「伊勢神宮の鬼門を守っている寺です。そこに行かないと片参りになります」
またしても「そこ」か。伊勢音頭でもそう歌われているらしく、おかげで私はもう一度最初から巡らなければいけないような気がしてきた。
聞けば聞くほど巡らされる伊勢参り。内宮と外宮に分かれることが巡りの元始となり、巡りのパワーが次々と観光スポットを生み出していく。まるで渦を描くようで、めくるめくパワースポット。やはり伊勢はパワースポットの鑑なのである。
旅を終え、私は自宅に帰り、妻との日常生活に戻った。あらためて思うに、日常生活も「おかげさま」の賜物で神々しい。
「人々日用の間にありて、一事として神道あらずと云事なし」(度会延佳著「陽復記」/『近世神道論 前期国学 日本思想大系39』岩波書店 1972年)といわれているし、そもそも「日常」とは、
太陽はいつも同じで変わることがない。(『角川大字源』角川書店 1992年)
という日神信仰なのだ。太陽はひとつ。「ここじゃなくてそこ」と動いているようにも見えるが、きちんと向き合って「ここ」と唱えれば、まさにここがパワースポットである。