本能寺の変で信長が倒れたあと、権力を握った秀吉は、九州平定を急ぎました。九州には、大友・大村・有馬・小西などのキリシタン大名がいて、硝石を手に入れるためにカトリックに改宗し、ポルトガル船とイエズス会宣教師を誘致していたからです。大村純忠は長崎港をイエズス会に寄進しています。宣教師たちに教唆されたキリシタン大名は神社仏閣を破壊し、「異教徒」である日本人奴隷の輸出にも手を染めていました。ポルトガル船が求めた商品は、日本産の硫黄と銀、それに日本人奴隷でした。
これらの事実を知った秀吉は、宣教師(バテレン)追放令を発し、ポルトガル人との貿易を管理下に置きました。こうして輸入硝石は、豊臣政権によって一元管理されることになったのです。
輸出入管理がもたらした「徳川の平和」
関ヶ原の戦いを経て、この体制を引き継いだ徳川家康は、欧州ではスペイン・ポルトガルと敵対関係にあった新教国のオランダとイギリスに接近し、イギリスからは射程の長いカルバリン砲を輸入しました。これらの最新兵器は、大坂冬の陣で豊臣家を屈服させるのに効果がありました。
3代将軍家光は、長崎一港に貿易を制限し、オランダと中国にのみ通商を許しました。宣教師を送り込んでくるポルトガル船の来航を厳禁し、それでもマカオからやってきたポルトガル人を処刑しました。
これがのちに「鎖国令」と呼ばれる一連の通達であることは、『世界史とつなげて学べ 超日本史』で詳細に説明したとおりです。それは外国との貿易禁止ではなく、国家による貿易の一元管理と海外渡航の禁止を主眼とするものでした。その目的は、戦略物資である硝石の独占、銀の流出制限、奴隷貿易の禁止だったのです。かくして徳川家は鉄砲生産を独占し、260年におよぶ「徳川の平和」を可能にしたのです。
・戦略物資の輸出入を厳格にする。
・同盟国とは兵器を共有する。
徳川幕府から現代日本人が学ぶべき点はたくさんあります。