中世の戦略物資だった「硝石」と「硫黄」

現代の「ウラン」や「フッ化水素」に似ているのが、中世の「硝石」と「硫黄」でしょう。これらは宋代の中国で開発された黒色火薬の原料で、木炭と硫黄3+酸化剤の硝石7の割合で配合します。鉱山開発のほか、兵器としても使われました。

宋代に発明されたのは火槍かそうという兵器で、槍の先で火薬を爆発させ、敵を威嚇したり、殺傷したりしました。宮崎アニメの「もののけ姫」に出てくる「石火矢」は、この火槍がモデルのようです。南宋を制圧したモンゴル軍がこれを改良し、当時モンゴル帝国の支配下にあったイスラム世界や欧州へ伝えました。英仏百年戦争で大砲が、イタリア戦争では鉄砲が使われています。

欧州式の鉄砲は、大航海時代にポルトガル人の手で日本に伝来し、大砲も明代の中国と日本にほぼ同時に伝わりました。これら火砲は原理的にはみな同じで、黒色火薬の爆発力で弾を飛ばすのです。

火薬がなければ、鉄砲もただの筒です。各国は火薬の原料となる戦略物資の硫黄と硝石の確保に躍起となりました。火山が少ない中国では硫黄の確保が困難で、火山国日本からの輸入に頼っていました。一方、硝石は窒素化合物であり、動植物の遺体や排泄物などの有機物をバクテリアが分解して生まれたもので、民家や家畜小屋の床下から採取されました。水溶性のため、露天では確保が困難で、湿潤多雨の日本では当時、硝石の自給は不可能でした。

「硝石戦争」でもあった信長と石山本願寺の戦い

鉄砲で武装した海上武装商人団・倭寇に苦しめられた明朝は、日本への硝石の輸出を禁止していました。しかし、ポルトガル商人が横流しする中国産硝石は日本へ渡り、戦国時代の日本に鉄砲を普及させることになったのです。その窓口が長崎であり、大分(豊後中ノ浜)であり、大阪湾の堺でした。

当時の大阪平野は低湿地であり、のちに大阪城が建つ場所に、石山本願寺が建っていました。本願寺を総本山とする全国の一向宗(浄土真宗)の門徒たちは、武装して戦国大名と戦っていました。教団兵力の最精鋭部隊が、紀伊の根来寺を拠点とする雑賀衆(さいかしゅう)と呼ばれる鉄砲隊ですが、彼らに硝石を提供していたのが堺でした。

伊勢長島の一向一揆に苦しめられた織田信長は、堺の制圧なしには一向宗の制圧なしと悟りました。15代将軍足利義昭を奉じて上洛した信長は、堺の自治権を奪いました。石山本願寺は信長に激しく抵抗し、10年におよぶ石山戦争(石山合戦)が勃発。この戦争は宗教戦争であると同時に、硝石をめぐる戦いでもあったのです。戦いに敗れた顕如が大挙したあと、石山本願寺は取り壊され、その跡地にはのちに、豊臣秀吉の手で大坂城が築城されました。