受け入れることができなかった「重い障害」

高校を卒業すると、飲料メーカーに就職した。職場ではトラブルもなく、真面目に働いた。

ところが、約1年後、変調が始まった。職場の同僚に対する被害妄想から始まり、出社を拒否して錯乱状態になった。

数カ月で病院を退院して家に戻ってきたが、妄言や暴力が続いた。物であれ、テレビの画面であれ、とにかく赤や黒い色に反応してしまう。そんな時、長男は窓から物を投げ捨て、力の弱い母親の額に、たばこを押しつけた。

男性は、「刺激したら、また妻に何をされるか分からない」という恐怖心から、長男を怒ることができなかった。火傷を負った妻に対し、「お前が悪いんだぞ」と、あえて長男の前で言うことでしか、長男の気持ちを落ち着かせることはできなかった。2人で自宅そばの畑に停めた車の中に逃げ込んだ時は、外から車体をすさまじい力で揺すられ、生きた心地がしなかった。

重い障害という事実を、男性は受け入れることができなかった。

父子そろってプロ野球の巨人ファンだった。長男は、居間のテレビで野球を見る時は機嫌が良く、巨人が勝てば原辰徳監督をまねて、両親と拳を合わせて「グータッチ」をすることもあった。穏やかな時には、「お父さん、おやすみ」と、甘えるように言うことだってあったのだ。

自治会長「一人で抱え込んでしまったのだろう」

とりわけ思い出に残っているのが、自宅から車で数分の公園に出かけた際のことだ。病状が安定していた時期だった。男性の提案で、2人でかけっこをした。距離にして50メートルくらいだっただろうか。

結果は、少しの差で男性の勝ちだった。もともと体格の良かった長男は、ひきこもりがちな生活が続いたこともあり、高校時代に比べて体重が数十キログラム増えていたのだ。それでも、長男は楽しんだように見えた。病気になってからは数少ない、親子の交流だった。

「きっと穏やかな息子に戻る」。そう信じて疑わなかった。

「家庭のことは何も言わなかった。一人で抱え込んでしまったのだろう」

男性と親しかった当時の自治会長(74)は振り返る。

男性は自治会の防犯担当の役員として、地域の街灯をこまめに点検して回っていたという。早朝から活動を始め、愚痴もこぼさずに、黙々とパトロールに精を出していた。そんな姿に自治会長は、「熱心な人だな」と感じていた。