学生運動を理由にした退学や停学はなし

70年安保を目前にしていた当時、日本は政治の季節を迎えていた。大学はもちろん、都内の進歩的な高校にも学生運動の風が吹き込み、デモや政治活動に参加する生徒は珍しくなかった。武蔵高校でも学生運動に参加する生徒は多く、田中氏もその一人だったという。学生運動をテーマにした小説『されどわれらが日々─』(64年に芥川賞受賞)がベストセラーになり、当時は愛読する高校生が多かった。本作を執筆した柴田翔氏(後に東京大学名誉教授)も武蔵高OBである。

高校3年のある日、田中氏がデモに参加していると、合法デモだったにもかかわらず、東銀座で機動隊員に囲まれてしまう。逮捕されることも覚悟したとたんに腹が据わって冷静になった。次の瞬間、隊列が崩れて小さな退路ができる。日頃、陸上部で鍛えていた田中氏はガードレールを跳び越えて逃走した。

ただし、途中でズボンが破れてしまい、これを見つけた母、そして父・清玄氏に叱られてしまう。父は「命をかけて国を変える気概があるならやってもいいが、それほどの覚悟もないのであれば学生運動などめてしまえ。俺は命がけでやった」と一喝した。

武蔵高校の教員たちは学生運動についても鷹揚おうようだった。校内には学生運動の各派に属する生徒がいたが、「先生はデモに向かう生徒を一度はいさめますが、それ以上は言わなかった。生徒の自主性を尊重してくれたのですね。最後は『気をつけろよ』と声をかけ、学生運動を理由に退学や停学になることもありませんでした」。生徒と教員のお互いの信頼関係が垣間見られるエピソードである。

設立当時は規律の厳しいスパルタ校だった

ここで学校の歴史を振り返りたい。武蔵高等学校中学校は1922年(大正10年)に、根津財閥(東武鉄道、東武百貨店などを創設・経営)の初代総帥・根津嘉一郎によって7年制の旧制中高一貫校として設立された。当時の学制では本来、中学5年・高校3年であったが、1918年の第二次高等学校令によってイギリスのパブリックスクールを模した中高一貫の7年制の設立が許されることとなり、官立の東京高校(後に東京大学)のほか、私立では武蔵、甲南、成蹊、成城の4校が創設された。当時の経済人の教育熱も強く、彼らはエリート養成校としてこれら7年制を支援し、子息を入学させた。武蔵も設立当初は、根津総帥や初代校長の一木(いちき)喜徳郎(文部大臣など歴任)の方針により、エリートを養成すべく、スパルタ教育を施し、生徒には野球を禁止し、成績が悪ければ落第・退学させることも辞さなかった。