戦後の焼け野原から、世界第2位の経済大国になった日本。その牽引役となった政財界のリーダーの功績や知られざるエピソードなどを紹介していく。

世にない商品開発を支えた超楽観主義

田原総一朗さんが数多く取材をしてきた経済人のなかから、器の大きな人として真っ先にあげたのが、戦後の日本経済の成長を牽引した企業の1つであるソニーの創業者、盛田昭夫氏だ。

ソニー創業者 盛田昭夫氏(時事通信フォト=写真)

「盛田さんはとても気さくな人柄で、新幹線で偶然乗り合わせると、私の隣にいた人に頼み込んで席を替わってもらい、政治の現状などを熱心に質問されました。そうした会話のなかで、『私は超楽観主義者なのですよ』という話を何度も聞きました」

楽観主義といっても、単に鷹揚に構えているわけではなく、落ち込んだり、くよくよ悩んだりしないという器の大きさのこと。盛田氏は営業担当の責任者として、テープレコーダーをはじめ、まだ世の中になかった製品を売り込み、ソニーの経営基盤を築いた。

「技術開発だけでなく、その技術を商品として販売していくための『商品開発』を重視していました。ソニーにおける販売の開発者だったのです」

その商品開発の最たる成功例がトランジスタラジオだという。半導体素子のトランジスタを発明したのは米国人だが、彼らにはその用途がわからない。それをトランジスタラジオとして商品開発し、新市場を切り拓いたのだ。

盛田昭夫(もりた・あきお)
【ソニー創業者】
1921~99年。46年井深大らとソニーの前身である東京通信工業を設立。55年日本初のトランジスタラジオを発売。71年社長に就任。86年経済団体連合会副会長に就任。91年勲一等瑞宝章を受章する。94年ソニーファウンダー・名誉会長に就任した。

利他の心で人を魅了し続ける

「京セラの稲盛和夫名誉会長も、逆境に遭遇してもマイナス思考に陥らず、常に前向きです。塾長を務める盛和塾を見てわかるように、その器の大きさに魅了される経営者が世界中で増えています」と田原さんはいう。実はそうした背景には、稲盛氏が多くの挫折を乗り越えてきたことがある。

京セラ名誉会長 稲盛和夫氏(時事通信フォト=写真)

稲盛氏は小学生の頃に大病を患い、中学と大学受験に失敗。就職も希望がかなわなかった。入社した碍子メーカーで、ニューセラミックスの開発に大きく貢献するものの、その後は担当を外されるという屈辱を味わう。そしてメーカーを辞め、1959年に仲間たちと京都セラミック(現・京セラ)を設立。しかし、新興企業のニューセラミックスを購入してくれる会社はなく、たちまち経営は危機に瀕する。

「日本では業界の大物と親しくならなければ商売はうまくいかず、それには接待費などがかかります。そういう日本の古い商習慣を嫌い、稲盛さんは米国で販売することにした。日本の大企業には米国信仰が強く、まず米国で実績を挙げようと考えたのです」

単身渡米して飛び込み営業をするものの、結果は惨憺たるものだった。それでも諦めず、3度目の渡米でテキサス・インスツルメンツに採用されることになった。

また、稲盛氏は2010年、会社更生法の適用を申請した日本航空の再建を託され、3年でV字回復させた。「稲盛さんが大切にしているのが『利他の心』で、商売で考えるのは自分(会社)が得することではなく、お客さんのメリット。そうすれば社会から信用され、経営が成り立つ。このことを日本航空でも徹底し、再建に成功したのです」と田原さんは話す。

稲盛和夫(いなもり・かずお)
【京セラ名誉会長】
1932年~。55年に鹿児島大学工学部卒業後、碍子メーカーへ入社。59年京都セラミック(現・京セラ)を設立し、社長に就任。84年第二電電企画を設立。2010年日本航空会長に就任。ボランティアで経営塾「盛和塾」の塾長を務め、数多くの経営者を育成。