「このうえなく魅力的なオファー」を断った理由

ずいぶん前のことだが、大金持ちのある企業家から、100万ユーロ(約1億2000万円)で彼の伝記を書いてくれないかと頼まれたことがある。このうえなく魅力的なオファーだったが、私は断った。伝記の執筆は私の「能力の輪」の範囲外だったからだ。

優れた伝記を書きあげるには、大勢の人への取材と綿密なリサーチが欠かせない。それには小説や実用書を書くのとは別の能力が必要だ。でも、その能力は私にはない。

もしあのオファーを受けていたら、私はきっと無駄に労力を使うばかりで、大きな挫折感を味わっていただろう。それより問題なのは、あのオファーを受けていたとしても、私にはせいぜい平凡な本しか書けていなかっただろうということだ。

感情心理学に関する本を多く執筆している、イギリス人著述家のディラン・エヴァンズは、平凡からはほど遠い彼の著作『Risk Intelligence(リスクインテリジェンス)』(未邦訳)の中で、JPという名前のプロのバックギャモン(ボードゲーム)プレイヤーについて書いている。

「JPはわざといくつかミスをした。相手がその機会を活かせるかどうかを見きわめるためだ。そして相手がそれを巧みに利用してみせると、試合を打ち切った。見込みのない試合にエネルギーをつぎ込むのをやめるためだ。

つまりJPには、ほかのプレイヤーたちに見えていないことがちゃんと見えていたのだ。彼は、自分がかなわない対戦相手の条件をきちんと把握していたのだ」

JPはどんな相手が自分を「能力の輪」から押し出すかを理解して、そういう対戦相手に当たったときには自ら身を引いたのだ。

不動産投機が得意でも「政治力のある大統領」にはなれない

魅力的な仕事のオファーを受けて自分の能力の輪を「越えたくなる」誘惑のほかに、もうひとつ同じくらい強い力で私たちを引きつけるものがある。自分の能力の輪を「広げたくなる」誘惑である。

この誘惑は、あなたがこれまでの輪の中で成功をおさめ、そこで快適に過ごしている場合には特に大きい。だが、「能力の輪」をむやみに広げようとするのはやめておいたほうがいい。人間の能力は、ひとつの領域から次の領域へと「転用」が利くわけではないからだ。

能力には、それぞれ決まった「専門領域」がある。たとえ、すばらしいチェスのプレイヤーだからといって、自動的にビジネスの優れた戦略家になれるわけではない。心臓外科医だからといって、自動的によい病院長になれるわけでもない。不動産投機で能力を発揮しているからといって、自動的に政治力のある大統領になれるわけではないのだ。