竹中▼先人の思考のプロセスを知り、自分の思考を広げる

世の中には考える素材は山ほどあり、参考文献を調べながら、先人はどう考えたかを知るプロセスを経て、自分の思考が広がっていきます。このプロセスを身に付けているかどうかが、教養人であるかどうかの違いです。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/kohei_hara)

インターネットで検索し、知識という材料を集めるのは構いません。でも、答えまでも検索してしまっては教養が身に付きません。集まった材料を前に、じっくりと考える時間を持つことが大切です。

私はいわゆる団塊の世代で、大学進学率が高まった時代に幸い最高学府で勉強させてもらいました。一方で私の両親は大学を出ていません。それでも、大学を出ていない両親のほうが教養はあると確信しています。

何が違うかといえば、考える時間の違いだと思うのです。私たちは受験勉強をしたけれど、考える訓練を受けずに大学生になり、大人になって教養が身に付いていないと反省した世代でもあるのです。

今、教養番組や教養本の類いがたくさん出ています。ただ、それは知識にすぎません。例えば日本史の教科書を読んでいると江戸時代前期に上方で元禄文化が栄えたという話が出てきます。それを見たときに、「江戸時代前期、上方、元禄文化」と覚えるだけではなく、なぜ上方で起こって江戸では起こらなかったのかとか、その時代の年収はどれくらいで、普段の生活の中でどのようなことをしていたのかとか、より深く考えていくことで本質を捉える思考を鍛えることができるのです。

ヨーロッパのウィーン学派は「懐疑主義」で知られていますが、まさにすべてについて懐疑的に見る必要があるでしょう。本当にそうかと常に疑い、人間は本当に完璧な存在なのかとまで疑う。疑う中で教養も鍛えられるのです。

教養があることを示すうえではちょっとしたユーモアも大事です。これは政治家の先生が長けている分野です。森嘉朗・元首相がときどき使うジョークが、「私が好きなお酒は焼酎の『森伊蔵』です。『森いいぞ』と言ってるからね」。大半の政治家はそんな小ネタを持っているものです。

私も東洋大学の立て看板で「竹中は若者の未来を奪うやつだから教壇に立たせるな」と書かれたときは、ある講演で「私は東洋大学の看板教授になるつもりだったのに“立て看板教授”になってしまいました」とジョークで返しました(笑)。