今は、国全体で集計した量を考えているので、企業部門の生産物全部と同価値の貨幣が、いったん国民に支払われることになる。ケインズの着想では、企業部門の投資のための財需要と家計部門の消費のための財需要の和(有効需要)は決まった額であるが、企業部門が適当な見込みを持って生産した総生産量は、これと一致しないのが一般的だろう。

そこで今、総生産量がこの有効需要を上回っているとしてみよう。このとき何が起きるだろうか。(ちなみに総生産量が有効需要を下回った場合も、進め方を逆にするだけで同様の結論にたどりつく) 。

国民は、生産に従事した貢献分として受けた取った貨幣を支払って、企業部門から生産物を購入する。それは有効需要を構成する消費の額だけ行われる。また、残る貨幣から、貯蓄行動を行う。具体的には、証券市場で株を買ったり、債券市場で債券を買ったりすることである。この金融部門を通じて企業に提供された貨幣は、それを受け取った企業にとって、投資のための財購入の資金にあてられることになる。このように、国民の得た貨幣は2つの経路で、企業部門の生産物と交換され、企業部門に流れ戻っていくことになるだろう。

ここで重要なのは、今、実際の生産物の量が、有効需要(消費需要+投資需要)を上回っている、という状況を考えていることである。つまり、生産された財は、すべて家計や企業によって購入され切られず、売れ残りが生じるのである。これは企業部門の「在庫」の発生となる。一方で、家計部門にはこれと同価値の貨幣が手もとに余ることになる。この貨幣は、消費にも(金融市場を通じた)貯蓄にも当てられなかった残余なのである。

もちろん、貨幣という形での保有も「貯蓄」と定義するなら、これは貯蓄額の増加を意味するが、今は株や債券の購入だけを貯蓄と定義しておく。ここで、家計の手もとに貨幣が残る理由は、企業の投資分が同じままだから、それと同額の金融商品しか発行されないため、したくとも貯蓄できないからだ。もちろん、利子率が変化するなら貯蓄増加は可能だが、今は一定と仮定したまま話をすすめよう。

まとめると、企業の総生産量が有効需要を越えている場合、企業には在庫が発生し、家計にはそれと同価値の貨幣が残留することとなる新古典派経済学では、こういう在庫や貨幣残高が出ないように、財の価格調整、つまり値下げが起きて、商品は完売され、貨幣はすべて企業部門に戻っていくことになるのだが、ケインズ的なプロセスではそうならない。

●この連載は、小島寛之著『容疑者ケインズ』の第1章の一部、ケインズの「一般理論」の批判的解説を転載したものです。