「素朴な暮らしは、とても危ういもの」

2012年末、取材でバングラデシュの農村を訪れたことがある。日本企業が手がけるソーシャルビジネス(社会的事業)を取材するためだった。

村では、日本から新聞記者が来たということで大騒ぎになり、村中といっても過言ではないほどの人たちが出迎えてくれた。やぎや鶏が我が物顔で村を歩き、子どもたちが裸足でかけ回る。私の頭に浮かんだのは、先進国ではなかなか目にすることのできなくなったその素朴さに対する、率直な賛辞だった。

「すごくのどかで、いいところですね」

そんな感想を口にした私に、事業を手がけてきた日本人の男性はこう返した。

「本当にその通りです。でも、災害だったり、病気だったり、ちょっとしたことが起きただけで、彼らの暮らしはたちまち、立ちゆかなくなる。この素朴な暮らしは、とても危ういものなんです」

私は、新しい出会いの高揚感だけにとらわれ、安易な言葉を口にしてしまったことを恥じた。

その時はそこまで頭が回らなかったが、当時の写真を改めて見返してみると、集まっていたのは男性ばかりだ。今回、バングラデシュの事情について改めて調べなおしてみて、これは女性が1人で買い物にすら出られないというバングラデシュならではの事情も絡んでいたのだろうと思う。

「メイド・イン・バングラデシュ」の洋服

2013年4月、バングラデシュの首都ダッカ近郊で、縫製工場が入った8階建てのビル「ラナプラザ」が崩壊し、1000人以上が命を落とした。ここで犠牲になった人たちは、こうした農村から都市部の工場に働きに出ていた人たちだ。農村では、現金収入を得る機会はとても少ない。「次の世代の教育のために」。そんな思いが、彼女たちの支えになっている。

「Made in Bangladesh」。最近そんなタグが着いた洋服を、よく見かけるようになった。観光国ではないバングラデシュについて、日本ではイメージできる人は少ないだろうし、足を運んだことがあるという人も少ないだろう。この洋服を作った人が、どこで、どんな暮らしをしているのか。想像することが難しい世界に、私たちは生きている。

大量生産の商品は、顔の見える誰かが作った服に比べれば、価値が低いもののように扱われている。もしかしたら、生産に関わっている本人も、何万もある工程の一つを担っただけの商品に対する愛着は薄いのかもしれない。生産にかかわる人たちも、消費する側も、「簡単に捨ててよい」という感覚になってしまう。

移り変わる流行に合わせて、服を簡単に取りかえられる生活は、私たちを豊かにしたのだろうか。