※本稿は、仲村和代・藤田さつき『大量廃棄社会』(光文社新書)の一部を再編集したものです。
実家のパン屋が厳しい経営状態に
田村陽至さんは広島市にある創業約70年のパン屋「ドリアン」の3代目だ。父は、典型的な街のパン屋だった。店には、食パンやフランスパン、菓子パン、総菜パン、サンドイッチなどたくさんの種類のパンが所狭しと並んでいたという。
でも田村さんはそんなパン屋を継ぐのが嫌だった。売れるために焼きそばもたこ焼きも入れ、その流行が去れば次の流行に飛び移る。そんな「なんでもあり」の日本のパンが軽薄に見えて、好きではなかったのだ。田村さんは東京の大学で環境学を学んだ後、沖縄の環境NPOやモンゴルのエコツアーの仕事をするようになった。だがバブル崩壊で、実家のパン屋は厳しい経営状況に陥ってしまう。
一時帰国した田村さんに、両親は「従業員には全員やめてもらい、2人だけで店を続けて借金を返していこうと思うんじゃ」と告げた。
いくらなんでも、それは現実的じゃないだろう……。そう思った田村さんは、パン屋を手伝うことを決めた。2004年のことだ。
夜10時から翌日夕方までパン作りに追われていた
田村さんはドリアンを、当時流行り始めていた「こだわり」のパン屋へリニューアルすることにした。パンの具はすべて手作り。保存料なども使わないようにした。石窯を作って、天然酵母のパンも焼き始めた。店にはいつも40種類ほどのパンがずらりと並んだ。
製造スタッフ、店舗スタッフ、パート従業員あわせて10人ほどがフル稼働して2店舗を回し、レストランへの配達もこなした。豊富な品揃えのこだわりのパンが並ぶ店は、すぐに人気になった。田村さんは夜10時から翌日の夕方まで寝ずにパン作りに追われた。
「客入りは最多になり、売り上げも最高になった。でかいエンジンでとにかくがむしゃらに働く、という感じでしたね。でも、パンを売っても売っても、お金が残らなかったんです。外からの評判はいいのに、中は潤っていない。この矛盾はちょっとおかしい、と感じるようになりました。スタッフも自分も安い給料で働き続けていた。当時、僕には若いスタッフにパン作りを教える余裕もありませんでした。彼らが店を気に入ってくれているのに甘えて、このまま1年、2年ずるずると貯金もできないのに、時間を奪い続けていていいのかと悩みました」