「仕事が楽しいと初めて思った」

でもそのパンは段違いにおいしかった。

違いは素材だった。店の代表のグラッガー氏は「使う材料には、入手できるベストのものを使っている」と語った。小麦に、ルヴァン種の天然酵母、薪の石窯も「素材の一つ」と教えられた。

「こねて焼いただけでおいしいんですよ。職人たちが働く時間は短くて、客にはいい材料のものを安い価格で提供できる。だから店も流行る。グラッガーのパンでは、みんなが得をしているんです。僕も仕事が楽しいと初めて思った」

1日4、5時間の仕事が終わると、妻と街に繰り出し、食事へ行った。日本でパン屋をしていたころは1日15時間以上必死に働いて、インプットをする余裕もなかった。それなのに、パンはグラッガーの方がずっとおいしい。

「日本のパン職人たちは100点満点のパンを目指すのに7、8時間を費やすんです。僕自身もそうやって血眼になって働いていた。でもグラッガーでは、パンが70、80点でも4、5時間でできるならいいや、というマインドなんですよ。それでも、いい素材を使って、そんな風に力を抜いて投げた球は、案外伸びる。それで日本のパンよりおいしくなる」

熱心な広島カープファンでもある田村さんは、野球にたとえながらそう振り返った。

一体僕はなにをしてきたんだろう。田村さんは少し考え込んだ後、帰国したらこのやり方を自分も実践してみるほかない、と決心した。

「無駄にできない」小麦で作ったパン

2013年10月、店を再開した田村さんは、「実験」を始めた。

グラッガーで学んだことの実践として、まず材料にこだわることにした。選んだのは、国産の有機栽培の小麦だ。それが、日本の気候や風土に合うパンを作る最高の材料だと思ったからだ。ただ、パンに使われる小麦のうち国産は3パーセントだけと言われ、有機栽培となるとさらに希少だ。当時、国産の有機小麦の価格は外国産小麦に比べて約4倍。普通の国産小麦に比べても約2倍だった。材料がこの値段だと、イチジクやクルミを入れたカンパーニュを日常的に店で作って売ることは不可能だ。

しかし具材を入れないシンプルなカンパーニュなら、有機国産小麦を使って、さらに同じ価格のままでも大丈夫だと分かった。田村さんは、具材を入れないカンパーニュなど2種類のみに絞って売ることを決めた。こうすればなんとか採算を合わせることができる。

理想とする有機小麦を求めて、北海道・十勝の生産農家、中川泰一さんへ会いに行った。中川さんは人工肥料を使わず、草を育てて小麦の肥料としている。有機栽培に転換した当時の苦労話や、「目が覚めると麦がすべて枯れていた」夢にうなされた話を聞いた。

「海外産の小麦を使っていると、誰が栽培したのかも分からないし、どんな苦労があるのか想像力が働かない。でも中川さんに会って話を聞き、小麦の作り手の思いを知ることができました。この小麦で作ったパンは絶対に無駄にできない、どうにかして売り切らないとだめだ、と思いましたね」

そうして実現した具材をなくしたカンパーニュには、2週間ほど日持ちするという予期せぬメリットもあった。