※本稿は、仲村和代・藤田さつき『大量廃棄社会』(光文社新書)の一部を再編集したものです。
「ものが豊富ではない時代」は美化できない
東北地方の農村では古くから、「刺し子」と呼ばれる民芸がさかんだった。一針ひとはり、丁寧に施された刺繡は素朴で愛らしく、今でも手芸の一つとして親しまれている。だが、元はといえば、古くなった布を何枚も重ね合わせ、丈夫にするための工夫だった。
かつて、布は貴重品。庶民たちは、着物がすり切れて着られなくなっても、継ぎ合わせて別のものに生まれ変わらせ、ボロボロになるまで使い続けていた。為政者の側が、農民に貴重な木綿の使用を禁じ、麻しか身につけることができなかったため、繊維の荒い麻を一針ひとはり埋めることで、なんとか温かさを確保していた、という事情もあるようだ。
ものが豊富ではなかった時代は、そんな風に、服も、食べ物も、自分たちの手で作り、消費されていた。無駄にする余裕はなく、ものの寿命を全うするまで丁寧に使われた。
それは美化するにはあまりにも厳しい暮らしでもあった。天候不順による凶作や災害などの事態がひとたび起きれば、暮らしはたちまち立ちゆかなくなり、命を落とす人も少なくなかった。
分業化で失われていった「作り手の顔」
産業化が進むと、自給自足の生活は少しずつ形を変え、服や食べ物の製造の過程は大規模になり、分業化されていった。その恩恵は非常に大きい、と私は思う。先進国では、文字どおり有り余るほどの食べ物が流通している。万が一、天候不順などの問題が起きても、グローバルな枠組みの中で補うことが可能になった。高価だった衣料品の価格もどんどん下がり、安くて丈夫でおしゃれな商品が当たり前のように手に入るようになった。
一方で、私たちの手に届く商品からは、作り手の「顔」が失われていった。自分たちの衣食住に関わるものが、どこで、誰の手で、どのように作られているのかがわからなくなってきた。さらに発展が進むと、製造の場は外国にも広がり、世界規模の分業体制が作り上げられた。作り手の姿はますます見えなくなっていった。消費しきれないほどの商品が作られ、捨てられていくが、私たちはどこで、どのくらいのものが、どのように捨てられているかについて、ほとんど目にすることなしに、暮らしていくことができる。
この世界規模の分業体制は、多様な選択肢の中から「買う」という行為を通して「選ぶことができる側」と、安い製品を作るために安い賃金しか支払われず、それでもその労働をすることでしか生活が成り立たないという、「選ぶことができない側」が、対になることで成り立っている。先進国の人が「安い」と思える価格で、たくさんの選択肢を用意するためには、誰かが安い労働力を提供する必要があるからだ。