コンサルよりもつらかった、100人のリストラ

【田原】最初はバイトみたいなものだったんですね。そこから経営にかかわるようになったのはどうしてですか?

田原総一朗●1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所入社。東京12チャンネル(現テレビ東京)を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。本連載を収録した『起業家のように考える。』(小社刊)ほか、『日本の戦争』など著書多数。

【田中】ロケットインターネットはアグレッシブな会社で、最初に10億円を投じて商品や物流網を用意してテレビCMまで打ったのですが、その直後に東日本大震災が起きました。地震発生から2週間後には10億円を使い切って債務超過に。ドイツ人は原発にネガティブなところがあることも重なって、4月には撤退すると言い出しました。

【田原】いきなり10億円を使い切ったんですか?

【田中】ドイツの会社は、3年で売上高1000億円という目標を掲げていました。そのミッションを達成するために積極的に投資するという判断は間違っていなかったと思います。

【田原】そうですか。でも、親会社が撤退すれば、会社は存続できない。

【田中】撤退の話が出たときに、「タナカが社長をやるなら追加でもう5億円だけ投資をする」と言われました。このオファーを引き受けて正式に社長になりました。

【田原】オファーというけど、債務超過の会社でしょ。いわば貧乏クジだ。どうして引き受ける気になったの?

【田中】スタートダッシュに失敗しただけで、トニー・シェイが打ち出したビジネスモデルは素晴らしい。テコ入れして会社を存続させることができれば、うまくいく可能性はある。それに倒産したところで、そこで人生が終わるわけじゃない。そういう開き直りもあったと思います。

【田原】テコ入れって、具体的に何をやったの?

【田中】毎月赤字が1億円出る状態だったので、まず売れない商品を値引きして売ってお金をつくり、当時200人に膨らんでいた社員も70人にスリム化しました。

【田原】100人以上リストラですか。

【田中】私が手を引いたら、会社そのものがなくなって、救える社員はゼロになります。つらい決断ですが、70人を救える道を選びました。

【田原】リストラは、告げるほうもしんどい。田中さんが話をしたの?

【田中】話しました。自分が採用した社員じゃないのに、どうして自分が首を切らなくてはいけないのかという思いがなかったと言えばウソになります。でも、会社を存続させるなら避けて通れない。そのことを淡々と説明しました。