【田原】給料が半分になれば、誰でも反対するよね。オリックスはあまり儲かっていなかった?

B.LEAGUE事務局長 葦原一正氏

【葦原】イチロー選手が抜けた後で、多額の赤字を抱えていました。それ以上落ちようがないくらいのひどい状態でしたから、逆にいえば上がり目しかない。その意味では非常にやりがいはありました。

【田原】具体的には何をしましたか?

【葦原】主には中期的にどう赤字を減らしていくかを考えていました。チケットを売るにしても空中戦と地上戦の両方が大事です。空中戦の1つはブランディング。当時、オリックスは近鉄から選手を引き継いだばかりで、本拠地も大阪なのか神戸なのかわかりにくかった。そこを整理してマーケティングしました。ただ、マーケティングで直接的に動員するのは簡単ではありません。むしろ当時球団スタッフ全員で一生懸命やっていたのは地上戦でした。対戦相手や曜日でだいたい動員の基礎数字は決まっているのですが、薄い座布団を重ねるように地道に営業活動をして、100人、200人と積み上げていく。スポーツ業界は華やかに見えますが、やっていることはかなり泥臭いです。

【田原】パ・リーグ6球団共同出資会社を兼務されて、12年に横浜DeNA、15年にはスポーツ系に強いコンサルティングファームを経て、いよいよプロバスケットのBリーグに行かれる。どういう経緯でしたか?

【葦原】もともとチェアマンの大河正明と面識がありました。当時はリーグ立ち上げまで1年しかなく、急ピッチで人探しをしなくてはいけない状況。あいつは暇そうだから、と声をかけたのでしょう。

【田原】日本のプロスポーツといえば野球とサッカー。どうしてバスケットに行こうと思ったのですか?

【葦原】理由は2つあります。まずは川淵三郎と一緒に仕事をしてみたかったから。強力なリーダーシップを持つ人の横で働くことは自分にとってプラスになると考えました。

【田原】川淵さんはJリーグ創設の立役者ですよね。どうしてバスケ界は川淵さんを招いたんだろう。

【葦原】かつては日本には2つのバスケプロリーグがありました。1つにまとまるための話し合いをしていましたが、不毛な争いがあってなかなかまとまらない。業を煮やした国際バスケットボール連盟が「これ以上喧嘩を続けるなら、日本代表はオリンピックの予選に出させない」と言ってきた。それで剛腕で鳴らす川淵に来てもらい、1つにまとめてもらったという経緯です。