※本稿は、諸富祥彦『あの天才たちは、こう育てられていた! 才能の芽を大きく開花させる最高の子育て』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
生まれてすぐ里子に出された漱石
放任主義の親の子どもが非行に走ってしまうというのは、いまも昔もよく聞く話です。子どものやりたいように任せているようでありながら、じつはそこに「親の愛」は介在していない、そんなようなケースです。
では、親からの愛情が足りないと、いったいどんな子どもに育つのか? 非行に走った例ではなく、そこから“立ち直り”を見せた国民的作家・夏目漱石のケースをここで見てみましょう。
夏目漱石といえば、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『草枕』『硝子戸の中』『夢十夜』など、寡作ながら100年以上も読み継がれている傑作を著した“文豪”として知られます。しかし、彼の生誕から少年時代をひも解いてみると、じつは「両親からの愛情に飢えていた」ことがわかってきます。
夏目漱石(当時の名は金之助)は、旧暦の慶應3年1月5日(1867年2月9日)、江戸は牛込馬場下(現在の東京都新宿区喜久井町)に生まれます。父・夏目小兵衛直克は町名主という権力者。漱石は、父・小兵衛51歳、母・千枝42歳のときの8番目の子ということもあって、やがて里子に出されてしまいました。
3つの家をたらい回しにされた
半年ないし1年後、里子に出された先の古道具屋で邪険に扱われたとのことで生家に出戻った漱石でしたが、再び養子として、新宿の名主・塩原昌之助のもとへ出されてしまいます。幼少期の漱石は、いわば、居場所がどこにもない「余所者(よそもの)」だったのです。
しかも、昌之助が愛人をつくり、妻と離婚することになったため、漱石はまたもや実家に逆戻り。実家には、それまで「祖父母」だと教えられていた実父と実母が待っていました。
2人が実の両親だと教えてくれたのは、実家に使われていたお手伝いの女中でした。漱石はそのときのことについて、こう記しています。