「腕のある一流の医者に、優しさや人格を求めたらダメ」

小説『虚栄』で私は、がん治療の開発研究についた巨額の国家予算をめぐり外科、放射線診療科、腫瘍内科、免疫療法科が四つ巴で覇権争いを繰り広げる様を描きました。あの作品は一定の事実に基づいていますが、少々劇画風の書き方をしたフィクションです。小説の形で私が世間に伝えたかったのは、医者が勧める治療法には「医者側の都合」も少なからず含まれているということです。

医者側の都合とは、ひとつには「自分が専門とする治療法でやりたい」という素朴な自負心によるものです。医者自身がその手術を得意としているかどうか、という都合もあります。A医師が「切除不能」と診断した症例でも、高度専門病院では切除できるというケースもあるからです。

そして、さらに言えば、外科とか放射線診療科といった所属領域の未来のために、または単に利益を目当てに、高度先進医療を勧めるケースもあると思うのです。

もっとも、裏読みしてばかりではきりがない。たとえば「この先生、腫瘍内科医だから抗がん剤治療を勧めているのだろうか」などと疑心暗鬼に陥っては、治療の機会を逃してしまうおそれもあります。その意味では、なんでも医師の言うとおりにしていた昔の医療の常識にも、妥当なところはあったのだと思います。

そこで、講演会でよく話しているのが「腕のある一流の医者に、優しさや人格を求めたらダメですよ」ということです。それだけの努力を重ねてきた人なら、ふつう、性格は悪いはずです(笑)。最初にそう理解しておけば、ちょっとした優しい言葉をかけてもらっただけで「この先生、腕だけや思うてたけど、案外ええ人やんか」と思えます。

「健康で長生き」は、なぜありえないか

肥大化しすぎた期待には応えられなくても、日本の医療は結構「いい線」いっています。「100%安全で、必ず当たる宝くじ」という幻想を求めると苦しみますが、「75%くらいでいい」と期待値を下げてみたら等身大の医療を受けられる。

そう考えれば、地元にあるそれなりの病院を頼り、たまたま初診で診てもらった医者と治療に向き合う。治療費や時間などの負担と、結果として得られる利益の収支バランスからすれば、この選択が最も効率的で、結果的には治る可能性も高いのではないでしょうか。