虐殺につながる差別はどこにでもある

ヤズィディの人々は、歴史的にも周囲から差別の対象となってきました。今回の襲撃でも、ISISは彼らに対して、改宗するか死ぬかのどちらかを迫ります。

こうしたヤズィディへの非人道的な扱いの根底には、ヤズィディへの差別意識が見え隠れしています。あいつらにはなにをしても構わない、という思いがあるのでしょう。

もちろん、命の危険を省みずナディアをかくまったアラブ人のイスラム教徒の一家のように、信仰の違いや民族の違いを超えてヤズィディと親しい関係を築いてきたイスラム教徒の隣人も多くいることは、決して忘れてはいけないと思います。友人のヤズィディを助けるために、命を落としたアラブ人も多くいます。ですが、イラクでのヤズィディに対する差別意識は、2014年8月にシンジャールが攻撃される、ずっと以前から根付いていたのは事実です。

このような差別はどこにでも、日本にだって存在しています。私自身、もしかしたら誰かに対して、自覚しないままに差別的な感情をもっているかもしれません。差別意識が集団化して強まり、それが引き金となって、紛争や集団的暴力が起こってしまうことは、歴史をみれば珍しくありません。

ヤズィディの人々に起こった、民族に対する虐殺や集団的な性暴力というのは、確かに極端に残虐な事例です。しかし、歴史や地域を越えて見てみると、ある被差別集団に対して抑圧的なまなざしや行動をマジョリティーが要求する図式は、ごくありふれたものです。

日本にいる私たちにも、同じことが起こっているかもしれないし、将来的に起こりうるかもしれません。だから、ヤズィディの虐殺や性暴力を「遠く離れた土地で、見知らぬ人々に起こったこと」と捉えてほしくないのです。

「メディアの力は武器よりも強い」

ある男性にインタビューしたときに、とても印象的だった言葉があります。この方は、後にシンジャール・シティの市長になっています。

「イラクと日本はとても離れているし、文化や伝統も全然違うだろう。でも、このイラクの山岳地帯で起きた悲劇に、想像力をもって向き合ってほしい。今も苦しみや哀しみを抱えて、そこに生きているヤズィディという人々がいる。それを日本の人たちに知ってもらうことで、自分たちはこの世界に存在できる。メディアの力は武器よりも強い。あなたが日本の人々に伝えてくれることではじめて、自分たちが存在することができるんだ」

知られることがなければ、ヤズィディの人々や、かれらが被った悲劇は、日本の人たちにとって存在しないことになります。だからナディア自身の言葉を通じて、何が起こって、彼女たちが何を感じたのか、想像力をもって皆さんにも向き合ってほしいのです。

私が取材を続けるのは、それを「使命」だと思っているからではありません。なぜなら私が直接取材で出会った人々、見てきたものはあまりに限られ、向き合っている問題の全てを伝えきることなど不可能だと分かっているからです。ですが、少なくとも、ナディアを始め私が関わった人々が直面している理不尽な苦しみや悲しみ、生き抜きたいと思う、その強い意思――こういった感情に思いをはせることで、どこかで彼らにきっと共感していただけるはずだと思うからなのです。

林典子(はやし・のりこ)
フォトジャーナリスト
1983年生まれ。国際政治学、紛争・平和構築学を専攻していた大学時代に西アフリカのガンビア共和国を訪れ、地元新聞社「The Point」紙で写真を撮り始める。「ニュースにならない人々の物語」を国内外で取材。英ロンドンのフォトエージェンシー「Panos Pictures」所属。
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