戦禍と創業者の決断から生まれた奇跡の樽

同社のウイスキーの大きな特徴はふたつ。まずは水で、もうひとつは樽の材質や大きさなどの多彩さにある。一般にウイスキーではホワイトオーク製の樽を熟成に使うことが多い。内部を焼いて甘い香りをつける「チャー」という工程を経たものを使う。さらに、シェリーやワインの熟成に使った樽を使うこともある。

水と樽が同社のウイスキーの特徴だ(撮影=熊谷武二)

戦前にウイスキー造りを始めた信治郎もまた海外から輸入したホワイトオークの樽を使って原酒を熟成させていた。ところが第二次世界大戦が起こり、海外製の樽を輸入することができなくなった。担当者は国内で樽材を探す。そうして、ミズナラを見つけてきた。

担当者は信治郎に提案する。

「大将、いろいろ探しましたが、ミズナラで作った樽がええんやないかと思います」
「ミズナラ? そうか。それしかないか。ほなら、やってみなはれ」

この通り言ったかどうかは定かではない。しかし、信治郎はミズナラの樽を採用した。

ホワイトオークを使うことが多いウイスキー樽に仕方なくとはいえ、ミズナラを使ったことは大きな決断であり、イノベーションだった。だが、結果がすぐに出たわけではない。戦後、寿屋(サントリーの前身)のウイスキーは進駐軍の将校たちに引っ張りだこになり、信治郎は大いに儲けた。ただし、その頃はまだミズナラ樽の原酒は熟成中で、ウイスキーにはブレンドされていない。

ジャパニーズウイスキーの象徴・ミズナラ樽の香り

ミズナラ樽の原酒を使う時期が来て、テイスティングしてみた。すると、当時のチーフブレンダーは「クセが強い」と言って、商品に加えようとしなかったのである。不評だったミズナラ樽の原酒はその後も眠り続け、熟成期間は20年以上にもなった。

久しぶりにテイスティングしてみたところ、ミズナラ樽の原酒は伽羅(きゃら)の香りとも白檀(びゃくだん)の香りともたとえられる独特の熟成香を放っていた。以後、生産量は非常に少ない割合ではあるが、ミズナラの原酒は同社のウイスキーに欠かせないものになったのである。

チーフブレンダーの福與は言う。

「いまでは、ミズナラの香りを気に入った世界各国のウイスキーメーカーから注目されるようになりました」

思うに、ミズナラ樽の香りはとろりとした味わいの日本の水だから調和する。他国の水に合うとは思えない。そして、ミズナラ樽の原酒ができたのは偶然による。信治郎は「やってみなはれ」と挑戦を後押ししただけだ。

ウイスキー造りの現場で必要なのは客を見る意識と新しいことに挑戦する意識だ。ふたつの言葉はふたつの意識を具体的に表現している。

野地秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年、東京都生まれ。早稲田大学商学部卒、出版社勤務などを経て現職。人物ルポ、ビジネス、食など幅広い分野で活躍中。近著に、7年に及ぶ単独取材を行った『トヨタ物語』(日経BP社)がある。
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