社会人教育を施した成人を送り出せば社会的コストも安く

成人年齢を20歳と定めたのは1876(明治9)年のこと。「18歳成人」は歴史的な変更であり、日本という国家の存立を左右する重要な問題だと私は考える。なぜなら、「この国では何を以て成人とするのか」を再定義することになるからだ。日本国憲法は前文で「ここに主権が国民に存すること」を宣言して、国民主権、主権在民を謳っている。国民主権を担う主体となるのは未成年者ではなく、自立した成年、成人=社会人である。つまり成人は日本という国家を構成する基本要素であり、成人を定義することは国家運営の基本中の基本だ。

2016年7月の参院選で高校内に設けられた期日前投票所(千葉県富里市)。(時事通信フォト=写真)

では何を以て成人=社会人と見なすかといえば、一般的には社会的責任が取れるかどうかだろう。社会に出てきちんと自分の責任を果たし、なおかつ国に対して、自治体に対して、地域のコミュニティに対して、所属する組織に対して、家族に対して、家庭を持ったら家庭に対して責任を持てる人間を「成人」とする。ところが18歳成人の議論は国民投票や選挙権年齢の引き下げからスタートしたために、このような成人の定義が1度もなされていない。

成人、社会人にはどのような責任があるのか、どういう務めを果たさなければいけないのか。その定義をしないまま選挙権を与えるということは、成人、社会人として生きていけないかもしれない人間に投票させるというバカげたことになる。選挙権の議論など後回しでいいから、まずは何を以て成人とするかという議論を先にするべきなのだ。

本来、「わが国はこうした社会的責任を果たせる主権者によって構成される」ということが憲法前文に謳われていてもいい。今後、日本は1000万人程度の移民を受け入れなくては国力も国家機能も維持できなくなる。移民を受け入れていくうえでも、主権者たる成人、社会人を定義することはきわめて重要で、日本版グリーンカード(国籍がなくても日本に永住できる権利およびその資格証明書)の発効要件にもつながってくる。

私からすれば18歳成人は、「成人」を再定義して、日本を再起動する大きなきっかけになりうるのだが、一連の議論の流れを見ていると、大山鳴動してネズミ一匹、という結末になりそうだ。歴史的なチャンスを些末な“適齢”論議に終始してお茶を濁してしまうところに、日本の行政執行能力、物事を定義して前に進めていく力の著しい衰えを感じざるをえない。