頑丈で工期が早く、コストも安い新しい構造を開発
高虎の名を高めたといわれるのが、伊予今治城で日本初の画期的な「層塔型天守」の天守閣の構造を開発したことだ。それ以前の安土城、姫路城などのように家屋の上に望楼(物見)を載せた「望楼型天守」の城に比べ、頑丈で工期が早く、コストも安かった。
一方で高虎は、自分の技術が認めてもらえれば主君を代えながらも、そのつど絶対忠誠を誓う心根を持つ人物でもあった。他方、高虎が忠誠を尽くしても主君が評価しないこともある。報われなければ、自分を正当に評価してくれる組織に移りたいという心情は今も昔も変わらない。高虎は、一生懸命働いても主君が認めてくれないのなら自ら主家を見限り立ち去るべきだと考え、遺訓にも残している。
伊賀の有力者を取り立て、家老に登用
高虎は、豊臣秀吉の異父弟の羽柴秀長に仕えたときに忠義な働きぶりが認められ、2万石を与えられている。しかし、秀長病没後に仕えた秀保が若くして死んだことで出家することになった。しかし、高虎の将才や築城術を惜しみ、高虎を説得、還俗させて7万石を与え、伊予板島の大名として召し抱えたのが6度目の主の秀吉だった。いつの時代でも、スペシャリティを持つことが重要で、高虎は武辺だけでなく“築城”という自分独自の専門性を磨き上げ、その能力を最大限に発揮して生き抜いてきたといえよう。
また、高虎はいわばスーパービジネスマンであり、いわゆるダークサイドスキルとブライトサイドスキルを兼ね備えた人物でもある。ブライトサイドは財務管理などで、彼の場合は築城術や戦闘能力に当たるだろう。ダークサイドは上司や組織のパワーバランスなどを見抜き、人を動かし人間関係をつくるスキルだ。高虎の稀に見る出世はこれらのスキルが支えたといえよう。
高虎には、主君を選ぶ目利き能力があった。秀吉の時代に安土城の築城などに携わりながら、聚楽第の邸内に家康の屋敷も建設した。その際に高虎が設計変更や自費で門を建築した話は有名だが、これは、将来伸びそうな人物への投資だったともいえよう。
秀吉没後、高虎は家康に急接近し、7人目の主が家康になった。津藩の領主となった高虎は、伊賀の忍びが乱を起こすなど統治が難しい伊賀の地域を強権的に支配しなかった。伊賀の有力な者を家臣に取り立て、藤堂姓を名乗らせ家老にも登用した。このような“人使い”を巧みに行えたのも、主君を6度代えるなど様々な経験に基づき、適材適所で人を真に生かす道に精通していたからといえよう。
▼藤堂高虎に学ぶべきポイント
1:自身を成長させるために積極的に環境を変える
2:独自の専門性を磨き、専門家ネットワークを持つ
3:パワーバランスを見抜き、人間関係を築く