「チャールズ、私の気分はそう簡単には害されませんよ」。その声に混じっていた怒りのトーンに、チャールズは困惑した。自分が失礼な発言をしたことは謝罪できておらず、上司が過剰な反応をする女性だと示唆することになってしまったことが彼には理解できなかったのだ。
小さなことだが、せっかくの謝罪の言葉を、まったく謝らなかったのと同じに変えてしまう余計な言葉には気をつけたいものだ。
【その4】謝罪の対象がずれている
私のセラピーに通っている、10代の息子を持つある父親の話だ。彼は怒りっぽくて、たとえば、閉まりにくいガレージのドアをきちんと閉めていなかったとかいうささいなことで息子を厳しく叱りつけてしまうことがよくあった。それで息子の機嫌が悪くなると、今度はこんなふうに謝っていたのだという。「父さんの言ったことで、そんなにおまえを怒らせてしまって申し訳なかった」。これが、彼の標準的な謝罪の言葉だった。
「あの謝り方が嫌なんです」。彼の息子は私にこう話してくれた。「なんだか腑に落ちなくて。理由はわからないんですけど」。息子のほうはどこかが間違っていると気がついていたものの、父親が何に対して謝っているのか、そして誰の問題なのかをぼやかしてしまう理由を突き止められずにいた。ただ、父親にそんなふうに謝られるとどこか落ち着かず、居心地が悪くなってしまうのだった。
この父親の謝罪になっていない謝罪は、自己防衛のあらわれでもなければ、責任逃れのずるいやり方でもない。むしろ家庭内に不安を抱える家族によくみられる混乱した思考の反映だと言っていい。どんなシステムにおいても、不安が大きければ大きいほど、人は自分の気持ちや行動に対する責任(“お父さんが頭が痛いって知っているのに音楽を小さくしなかったことを謝ってきなさい”)よりも、自分以外の人の気持ちや行動に対する責任(“お父さんの頭が痛くなったじゃないの、謝ってきなさい”)を強く感じるようになる。