「それなり」に、満足してはダメ

「戰在於治氣」(戰いは治氣に在り)――戦いを始めるには、まず士気を1つにまとめることが肝要だとの意味で、中国・戦国時代の兵法書『尉繚子(うつりょうし)』にある言葉だ。政治が正しく行われ、民生が安定していなければ、人々を戦さには動員できない、と説く。国を構成する兵士や市民の心を合わせる大切さを説き、社内の志を1つにした楢原流は、この教えに通じる。

2010年4月に執行役員・経営企画室長となり、グローバル推進本部を立ち上げた。海水の淡水化用に開発した逆浸透膜エレメントで、サウジアラビアで初の生産・販売会社を伊藤忠商事と現地企業の3社で設立した直後だ。グローバル化の推進は、前々から社長と一緒に考えてきた。フィルムなどへの成長分野への投資と並ぶ、明日への布石だ。

2000年ごろの売上高に占める海外比率は1割程度と、日本の化学素材は輸出に強いのに、大きく出遅れていた。本部を設置し、東南アジアや中国、米国などで拠点づくりに拍車をかけた。いま、海外比率は3割になっている。

2014年1月末、社長就任の内定会見で「海外担当を4年間やらせてもらったが、これからも続けられることがわくわくする」と言った。いまでも、わくわく感は十分にある。もしなくなったら、辞めたほうがいい。責任感と熱い思いがなかったら、リーダー役をやってはいけない、と確信する。

だから、就任して翌年の年頭挨拶で、こう言い切った。

「二正面作戦の時代と比べて『それなり』に改善したので、『現状でも十分ではないか』との甘い誘惑が生まれかねない。だが、事業とはいかにより多くのお客さまの役に立てるかの競争で、『それなり』に満足すると、たちまち明日のお客さまの役には立てなくなって、次代を担う後輩たちや株主の期待に応えられない」

フィルム事業は、ニーズの多様化に即し、成長を続けている。膜の事業では、淡水化用に加え、人工透析機に使う医療用で世界シェアを上げている。20世紀末までは繊維が3分の2、非繊維が3分の1だったが、いまや逆。もはや二正面作戦という言葉は、消えた。

2017年8月、インドネシアのトリアス社と、フィルム関連の合弁会社設立に調印した。トリアスは東南アジアの大手で、海外展開の重要な拠点となる。次には、自動車のエアバッグに使う丈夫な原糸や織物で、グローバルな拡販強化を始める。神経再生を誘導する微細なチューブ素材「ナーブリッジ」の海外展開も、来年には本格化させる。「戰在於治氣」は続く。

同じ8月、電子ペーパーなど超薄型ディスプレーに使う高耐熱性フィルムの工場を、敦賀に新設する、と発表した。来秋の稼働を目指す。500度の熱を加えても寸法が変わらず、従来はガラスしか使えずに「フィルムではダメ」と言われた分野にも使える。いまも滋賀で手がけているが、生産を本格化させる。「薄い、軽い、曲がる」の特性から、有機ELの基板材料にも期待される。自ら敦賀市を訪れ、これを発表した。敦賀で、再び夢を実現する決意だ。

東洋紡 社長 楢原誠慈(ならはら・せいじ)
1956年、福岡県生まれ。80年東京大学法学部卒業後、九州電力入社。88年東洋紡績(現・東洋紡)入社。2006年財務経理部長、09年財務部長、10年経営企画室長、11年取締役。14年4月より現職。
 
(書き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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