1885年12月、仲見世は完全リニューアルされた。注目したいのは、レンガ造りであったことだ。計画段階から銀座通りをモデルにすることが発表されていた。つまり、文明開化の最先端をゆく洋風デザインだったのである。完成前から評判となり、入居希望者が浅草区役所に殺到した。家賃は1カ月2円50銭から9円に分かれていた。当時の初任給が8円程度であったことから換算すると、およそ1円が現在の2万円くらいだろうか。したがって、現在の感覚としては5万円から20万円程度であったと思われる。

1911年2月11日(紀元節)の浅草界隈のにぎわいを、新聞は次のように書いている。

仁王門を潜るとあまりの人出で鳩ポッポの居所もない、観音裏では髭を生やしたのが声をからして布教をしている、花屋敷の大入を見て六区へでればいずれの小屋も満員の盛況、中でも活動写真は「お気の毒さま今すぐ入代りますから」と大勢待たされている……
(読売新聞1911年2月12日朝刊)

浅草は東京屈指の繁華街であり、上記の家賃は決して高いものではなかったのだろう。

「また貸し」が横行し、社会問題に

1912年10月、東京市は、周囲の事情も鑑み、仲見世の賃料の値上げを行った。現在と同じような状況が生じていたわけである。当時、仲見世の東側は1坪あたり月3円50銭、西側は3円80銭で貸していた。西側が高いのは日当たりが良いためだ。だが実際には、店子(たなこ)が支払う家賃はもっと高かった。というのも、仲見世120軒のうち、半数近くがまた貸しになっており、本来の契約者に約3倍もの家賃を払っていたのである。

仲見世のまた貸しは「浅草問題」として社会問題化した。当時、仲見世には昆虫館という施設があった。「昆虫教育の普及」という公益性から、東京市から無料で土地を借り受けていたが、実際には家賃をとって館内に売店を出店させていた。花屋敷前にも、日本美術の普及を目的とする同様の施設があったが、ここも実態は絵はがきや土産物を販売していた。