議論の成功はリーダーにかかっている

「忌憚のない意見を話そう」という掛け声だけでは、議論は成功しない。おそらくどんな組織にも、ピクサーの長テーブルのような慣習や因習があるに違いない。が、リーダーにとっては既存の空間が居心地よく感じられてしまう。

だとするならば、ごく当たり前の結論ではあるが、議論を成功させるかどうかは、直接的にはリーダーの手腕によるところが大きい。実際、『ピクサー流 創造するちから』や、前回参照した『賢い組織は「みんな」で決める』が描く優れたリーダー像には、多くの共通点を発見できる。

優れたリーダーの資質として、どちらも真っ先に挙げているのは、自分が知らないことを聞きたいという好奇心だ。

<成功するリーダーは、自分のやり方がまちがっていたり、不完全であるかもしれないという現実を受け入れている>(『ピクサー流創造するちから』)

<リーダーや社会的地位の高い人が集団の役に立つためにできるのは、共有されていない情報を聞きたいと発言し、聞こうとする意欲を示すことだ>(『賢い組織は「みんな」で決める』)

この連載で考えてきたことは、人がバイアスから逃れることの難しさだった。集団で議論をすると、リーダーや中心的人物の意見に同調する傾向は強い。会議でよくしゃべるのも、たいていエラい人たちだ。それを防ぐためには、リーダーが率先して、知らないことを認める必要があるという主張はうなずける。

批判的意見を歓迎するというのも、両著が共通して重要視しているポイントだ。知人の哲学者はとある対談で、学生が他人の発表に対して、肯定的な感想ばかり述べることに憤慨していた。「レジュメのコピーがズレてた」程度の感想でもいいから、おかしいと思ったこと、変だと思ったことを言ってほしい、と。

集団は放っておけば、同調圧力が強くなる。ならば、批判的意見が遠慮なく出るようになるまでには、リーダーはかなり積極的に異論・反論を歓迎する態度を発信する必要があるのだろう。

前回、今回と、一見、哲学とは関係のない話のように思うかもしれないが、そうではない。批判的思考こそは、哲学が最も得意とするものだ。そこで次回は、日本でも近年少しずつ活動の場を広げている「哲学対話」というものを紹介してみたい。

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