「キモイ」「ヤバイ」……フィーリングプアに陥る子どもたち
わたしがとりわけ気にかかっているのは、子どもたちの「心情表現」の画一化である。
「キモイ」「ウザい」「ヤバイ」「かわいい」「むかつく」「ウケる」「死ね」「マジか」「イタい」などなど……これらの限られた「心情語」を連呼する子どもたちが実に多い(大人にも多いが)。子を持つ保護者のみならず、街中や電車の中で子どもたちの会話に耳を傾けたことのある方の多くは、おそらくこれに同意してくれるだろう。
一般的には「感情がことばを生み出す」とされる。すなわち、未分化の感情を抽象化し、それぞれに対応するように用意されたのが「心情語」であるというもの。
だが、「ことばが感情を生み出す」という逆のパターンも考えられないだろうか。わたしはその心情表現を知っているからこそ当人が意識できる、あるいは獲得できる心情があると考える。
たとえば、「慈しむ(いつくしむ)」ということばがある。
本来は「可愛がる/愛する」という意味を持つ「うつくしむ」が語形変化したものであり、「(弱い立場のものを)大切にする。かわいがって大事にする」ことを意味する。もしも、この「慈しむ」という語彙を身につけていなければ、自分が何かを「慈しむ」心持ちになっていること、それ自体を明確に意識することが難しくなるのではないだろうか。
よって、ことばを知らなければ知らないほど、いわゆる「フィーリングプア」に陥ってしまい、他者から見たときに無表情で感情の乏しい人間に思われてしまう恐れすらある。そして、このことは心情語だけではなく、ことば全体に適用できるものだ。
イギリスの詩人・批評家であるサミュエル・ジョンソン(1709年-1784年)の名言を拝借すれば、「ことば」とは「思想の衣装」である。