日本の縫製工場が消えていく中、なぜ起業?

【田原】初心に戻って、いよいよ起業ですね。具体的な話をうかがう前にまず聞きたい。日本の縫製工場が消えていく中で、工場発のブランドをつくるのは、時代に逆行していると思いませんでしたか。理念はわかるけど、勝算はあった?

【山田】周りからは、自殺行為だと止められました。でも、僕自身は天の時がきたととらえていました。日本のものづくりが絶好調のときに工場に話を持ちかけても、相手にしてもらえない可能性が高い。でも、しんどい今の状況なら、この業界で一緒にイノベーションを起こそうといってくれる工場があるだろうと。

【田原】プラス思考ですね。さて、起業して何から始めましたか。

【山田】工場探しです。でも、工場は普通ホームページを持ってないからネットで探しても情報がない。なので最初は学校の教科書を開きました。

【田原】教科書?

【山田】地理の教科書には各地の特徴的な産業が載っています。それを見て縫製なら大阪が強いと知り、現地に行きました。

【田原】でも、大阪に行ってもどこに工場があるかわからないでしょう?

【山田】縫製業の中心だった地域はわかります。ただ、おっしゃるとおり個別の工場はわからないので、駅まで行ってタウンページを開き、片っ端から電話をかけて訪問しました。でも、ぜんぜんダメでしたね。朝から10軒ほど回りましたが、どこも門前払い。資本金50万円の会社の社長を名乗る若い男が訪ねてきて「インターネットで売りましょう」といったら、やはり警戒しますよね。お昼に「怪しい男が回っているので気をつけてください」という町内放送を聞いて、物騒なところだと思ったのですが、よく考えるとそれ、僕のことでした(笑)。

地元・熊本で協力してくれる工場を見つけた

【田原】そうですか。大阪は全滅?

【山田】はい。まったく相手にしてもらえず地元の熊本に帰りました。そこで見つけたのが、「HITOYOSHI」という工場です。地元の熊本日日新聞に、HITOYOSHIの親会社が潰れて、同社が再建を目指しているという記事を見つけました。再建計画に自社ブランドをつくることを盛り込んだらどうかということで話をしにいき、ワイシャツをつくってもらうことになったのです。

【田原】大阪の工場はダメだったのに、HITOYOSHIの人はどうしてオーケーしたんだろう。

【山田】もちろんHITOYOSHIの社長も、僕のことを怪しいやつだと思ったみたいです。後で両親から聞いたのですが、僕が知らないうちに工場の人たちが店に来ていたとか。僕が万が一逃げても、親の店があれば払ってもらえばいいということだったんでしょうね。

【田原】初商品のワイシャツはどれくらいつくったのですか。

【山田】最低ロットの400着です。市販で3万円の品質のものを1万円で販売するのですぐ売れると思っていたのですが、最初はさっぱりでした。インターネットのサイトに登録しましたが、ページを見にくるのは僕一人。ほかにアクセスする人はいなかった。当時6畳のアパートに住んでいましたが、商品が大きな段ボールで15箱分あって、横になって眠れないほどでした。仕方がないので縦になって寝た記憶があります。

【田原】売れないと、工場への支払いができませんよね。

【山田】はい。仕入れは50%なので、工場には5000円×400着で200万円支払わなくてはいけません。そのお金をつくるには200着売る必要があります。とりあえず友達に電話をかけまくり、「ご祝儀で買ってくれ」と頼み込み、100着は売れました。あとはタクシー会社やホテルのようにワイシャツが制服の会社に営業をかけましたが、どこもクリーニング代込みで1000円程度の中国産を採用していて、まったくかみ合いませんでした。