ここ10年ほど、三菱自動車の記者会見といえば2000年のリコール隠し事件を機に、新車「お披露目」は極端に減り、お詫び会見やリストラ計画など後ろ向きのテーマばかりが目立っていた。

「世間にプラスに受け止めてもらうためにも、誰もが乗って楽しいと感じる車にすべきだと考えていた」

<strong>三菱自動車 常務取締役 国内営業統括部門担当 相川哲郎</strong>●1978年、東京大学舶用機械工学科卒業後、三菱自動車入社。執行役員、乗用車開発本部A&B開発センター長などを経て、2009年より現職。
三菱自動車 常務取締役 国内営業統括部門担当 相川哲郎●1978年、東京大学舶用機械工学科卒業後、三菱自動車入社。執行役員、乗用車開発本部A&B開発センター長などを経て、2009年より現職。

この日、記者発表会の一部始終を見守っていた吉田裕明は、会場の片隅で万感の思いを語った。吉田の肩書は開発本部EV・パワートレインシステム技術部担当部長。アイ・ ミーブの開発責任者を務めた中心人物である。1978年入社。常務の相川、それにMiEV事業統括室長を務めた橋本徹(現・商品戦略本部プロダクトエグゼクティブ)と同期だが、エリートの多い技術陣の中で必ずしも出世コースを歩んだわけではない。

「吉田がいなかったら、アイ・ミーブの開発はできなかったかもしれません。会社が未曾有の経営危機に陥って、開発が風前の灯になっても『EVは優れた技術。やれることをやろう』と、明るく言う。そのおかげでみんなの心が折れずにすんだし、目標も見失わずにすんだ」

一緒に研究開発に携わったエンジニアの一人は、吉田の存在感の大きさについてこのように語る。

吉田がEVの研究開発に転じたのは94年のこと。特別な知識があったわけではなく、携わっていた上司が商用車開発に引っ張られたため、急きょ穴埋めに「研究をやれ」と命じられたのだった。

「真剣にやれば何でも楽しいと思っているんです。その中から必ず自分のやりたいことが生まれて、それが夢となる」と吉田は当時を振り返りながら語る。

以来、吉田は15年間にわたってEVの開発を手がけることになるが、その期間は、三菱自動車の栄光と転落の軌跡にぴたりと一致する。
(文中敬称略)

※すべて雑誌掲載当時

(田辺慎司、芳地博之(水島、松山)、小林禎弘(京都)=撮影)