「他国がわれわれと一緒に動かなければ、英国は動かない」
このような議論の中で、イギリスのブラウン首相が、国際的な金融機関の破綻に備えて、国際的な仕組みを構築することの必要性を説いた。国際的な仕組みの提案の中には、破綻処理ファンドや自己資本規制強化や国際的な金融取引課税などが含まれている。とりわけ、国際的な金融取引課税の提案は、ノーベル経済学賞受賞者の、アメリカの経済学者であるジェームズ・トービンが、今から37年前の1972年にプリンストン大学でのジェーンウェイ講義において提案した通貨取引課税と類似するものなので、トービン税の導入ということで、マスコミに大きく取り上げられた。
トービン税と呼ばれた通貨取引課税は、1日に何度でも取引するデイトレーダーのような投機家による投機目的の外国為替取引を抑制するために、その取引に対して一定率の課税をしようというものである。それは、車輪とレールとの間に砂を撒いて、摩擦を高めて、車輪の滑りを抑制しようとすることになぞらえられる。通貨取引課税を導入することによって、通貨取引の回数を減らし、為替相場の乱高下を抑制しようというものである。ブラウン首相が提案する国際的な金融取引課税も、投機目的の取引を抑制することに加えて、そこで得られた税収を、国際的な金融機関の破綻に備える資金源にしようという、一石二鳥をめざしたものである。
一方、取れるところから取ろうという発想の下に、本来のトービン税の目的である投機抑制効果よりもむしろ、地球温暖化対策の資金調達手段として、地球環境税の一つとして通貨取引税の導入がEUの一部の国で検討されてきた。特に、域内においても外国為替取引のないユーロ圏を有するEUにおいては、域外との通貨取引に対して課税するという、通貨取引税が議論されている。ユーロ圏にとっては、その域内の取引においては外国為替取引が必要なく、域外との国際経済取引においてのみ外国為替取引が伴うことから、それほどの負担ではないというものである。
投機抑制を目的としたトービン税を、投機とは関係ない地球環境のために利用しようという「目的外使用」であることは否めない。日本においても、環境省が地球環境税等研究会において、地球温暖化対策の資金調達手段としてトービン税を発展させた、トービン・シュパーン税、通貨取引開発税、国際通貨取引税などが検討された経緯がある。
G20財務大臣・中央銀行総裁会議においては、このブラウン首相による国際的な金融取引課税に関する提案は、必ずしもすべての参加者から賛同を受けたわけではなかった。とりわけ、アメリカのガイトナー財務長官は、「日々の金融取引税は支持する用意のあるものではない」と発言して、「とどめの一撃を加えた」と、ファイナンシャル・タイムズ紙は報じている。さらに、ガイトナー財務長官は、このような国際的な金融取引税が支持される条件の一つが、「他国がわれわれと一緒に動かなければ、英国は動かないであろう」と言ったことから、「問題は終わった」とも同紙に報じられている。
この「他国がわれわれと一緒に動かなければ、英国は動かないであろう」という発言は、まさしくトービン税が37年前にトービンによって提案されて、長い時間を経ても実現することのできない最大の理由となっている。
トービン自身も指摘しているトービン税に関する問題点が二つある。その一つは、前述したガイトナー財務長官の発言と関係する。そもそも金融取引や通貨取引は、貿易取引とは異なり、船舶や飛行機で輸送するというような費用はかからない。トービン税が提案された70年代から指摘されていたことであるが、とりわけ、情報通信技術が急速に進展した現代の情報化社会においては、極めて低い費用で、無限大のスピードで、換言すれば、一瞬のうちに地球の裏側に送金することができることから、金融取引や通貨取引に関する物理的な取引費用は極めて低い。