渋谷セルリアンタワー内の白を基調としたオフィス。至る所にジュリアン・オピーの作品が飾られている。新作の入手時や時節で展示替えが行われることも。

【弘兼】高校を中退した後、17歳で熊谷さんのお父さんが経営するパチンコ屋の店長になった。お父さんは手広く事業をやられていたとか。

【熊谷】父は戦争で満州に行っていました。戦後、日本に戻ってきたときに軍からサッカリンという人工甘味料を持ち帰り、汁粉屋をはじめたそうです。その利益で映画館、喫茶店、パチンコ屋などを展開していました。子どもの頃から、レストランに一緒に行ったときには、その店の客単価や回転率の話をよく聞かされていた。

【弘兼】通常の親子とはずいぶん違う会話ですね。熊谷さんが店長になったのは、長野のパチンコ屋でした。

【熊谷】夜中に「長野の店が上手くいっていなくて困っている」と、隣の部屋で両親が話していたのをたまたま聞いたのがきっかけでした。父はパチンコ屋をチェーン展開していて、長野にある母の実家の近くにお店をつくっていました。郊外型の店舗で、千何百坪の土地があり、車を100台以上停められるような規模の店だった。

【弘兼】そこで熊谷さんは、自分が立て直してやろうと思った。

【熊谷】父からすれば、店の立て直しのために僕を送り込んだという面もあるでしょうし、僕が高校を中退してフラフラしているように見えたということもあるでしょう。当時、僕としては、ディスコのDJや喫茶店など様々なアルバイトをしていたので、特にフラフラしているつもりはなかったのですが(笑)。

【弘兼】年上の部下からの反発はありませんでしたか?

【熊谷】東京の店で1、2カ月の研修を受けた後、長野に向かったのですが、17歳の若造のうえにド素人です。誰も言うことは聞いてくれなかった。マネジメントの「マ」の字もなかった。ゼロから揉まれて勉強することになりました。

【弘兼】学んだこととは何ですか?

【熊谷】3つあります。まずは、「どのように人を動かすか」というマネジメント。次に「計数管理」。パチンコ屋というのは、確率の世界です。釘を少し動かすと出玉率が変わる。すべてのパチンコ台の数字を記録して、確率の中に経営を落とし込んでいくのがパチンコ屋です。