「目を見て話せ」という人のズルい狙いとは?
だから、目を見て話すことが重要なのは間違いないのだが、一般の社会生活においてはその取り扱いに十分注意してほしい。
先生や親、先輩がそう言うのはなぜか。生徒や子ども、後輩、被告人の心の内を探りたいからだ。彼らは相手の目つきや表情を情報の宝庫だと考えている。「目を見て話せ」という常套句は、あなたのために使われるのではなく、あなたの話を聞く自分のために発せられる。
いいじゃないか。本音をぶつければわかってくれそうじゃないか。そう思うかもしれない。でも彼らは、法律という厳格な縛りのもとに仕事をし、証拠重視で冷静に事件を考えつつ、被告人の態度や顔つきを参考程度に判決の材料とするプロの裁判官とは違う。目を見たがるのは自分の考えを補強するのが目的で、あなたの真剣なまなざしを見て考えを変えることはめったにないと思ったほうがいい。
たとえば仕事でミスをしたとしよう。
上司に呼びつけられ、説明を求められる。事態が進行中で、いますぐ対応が求められるようなとき、上司にとってはあなたが反省しているかどうかより、どうやってミスをカバーするかが優先課題ではないだろうか。
うまく乗り切ったにせよ、大トラブルに発展したにせよ、目を見てじっくり話せと言われるのは多くの場合、事後処理が終わった後なのだ。
さて、この後始末をどうつけようかと上司は考える。道は大きく分けて二つ。説教するか、具体的に責任を取らせるかだ。裁判に例えると、“執行猶予付き判決”か“実刑”かだ。
部下の今後をも左右する重大な決断、いわば“実刑”を宣告するとき、なんの考えもなく上司があなたを呼びつけるだろうか。決めるのはヤツの目を見てから、などと思うだろうか。
あり得ない。
結論は出ているのだ。クビ、降格、プロジェクト外しなどの具体的責任を取らせるとなれば、直属の上司の一存で決定できないケースもあり、根回しを済ませた上で結論を伝える場合のほうが多いはず。そんな場面で部下から目を見て話されたところで、上司は部下から「なぜ、かばってくれなかったのか」「責任を自分一人に押し付けるのか」と責められているとしか感じ取れない。いつか手元に呼び戻そうという気さえなくしかねず、うなだれてしょんぼりしているほうがマシだったりする。