ユーミン、ミスチル、矢沢永吉が必要な理由

(上)代官山蔦屋書店2階の「アンジン」には懐かしい雑誌のバックナンバーが並ぶ。(下)店内にはジャンルごとにライフスタイルの提案に沿った本が置かれている。写真は「クルマ」のコーナー。

【弘兼】その後、増田さんは新規プロジェクト「軽井沢ベルコモンズ」の責任者になった。

【増田】入社2年目に「おまえ、軽井沢、全部やれ」ですよ。立ち退き交渉からはじまり、投資採算計画、建築デザイン、借地借家法など携わる業務をすべてやりました。デザイナーや弁護士などの専門家のほか、新入社員も3人つけてくれました。

【弘兼】つまり、給料をもらいながら勉強していたという感覚ですか?

【増田】めちゃくちゃ、勉強させてもらいました。当時、鈴屋の鈴木(義雄)社長からは「一流を知らないとプランニングはできない」としきりに言われました。だから、昼ご飯は六本木の高級寿司屋、夜はフレンチ。……もう、湯水のごとく金を使いまくりましたね。今の僕が存在するのは鈴屋のおかげなんです。

【弘兼】ただ、その鈴屋を増田さんは10年ほどで辞めてしまった。

【増田】僕が大学を出たときは機能として、言ってみれば寒さを凌ぐために服を着ていたんです。ところが、みんながお洒落をしはじめた。ほかの人と差別化できなくなると「お洒落」という価値観そのものが失われてしまう。そこで出てきたのが高級ブランドです。だが、鈴屋は高級ブランドに向かわなかった。

【弘兼】洋服が機能性からファッションの段階に入った。

【増田】その頃僕は「ブランド」の上の概念があると思うようになっていました。それが「スタイル」でした。「服を選ぶのではなくスタイルを選ぶ店がこれから必要になる」と鈴屋に提案し、新規事業を立ち上げようと働きかけましたが、叶わなかった。だから退社して、独立したのです。