▼あがり症、鈍足を1つずつ克服

鈴木敏文氏。写真はヨーカ堂(現・イトーヨーカ堂)入社のころのもの。1963年、30歳のときに、東京出版販売(現・トーハン)から転職した。

【鈴木】私も、長野県の上田中学(現・上田高校)の受験に失敗しています。学校の成績は悪くなかったのに、原因は子どものころからの極度のあがり症にありました。家では本をすらすら読めるのに、学校で先生に当てられると、頭の中が真っ白になって、うまく読めない。中学受験も口頭試問であがってしまい、何も答えられませんでした。先に受けた仲間が出口で待っていて、「なんであんな簡単な質問に答えられないんだ」とあきれられる始末です。

翌年また受験の時期がやってきます。終戦の翌年で世の中の先行きがわからない。実家は農家で養蚕もやっていたため、実業学校の小県蚕業学校(現・上田東高校)へ入りました。

私は自分のあがり症にものすごく劣等感があり、歯がゆくて仕方なかった。性格をなんとか直そうと、部活動で入ったのが弁論部でした。人前で話すのに慣れるためです。上田地区の6校対抗の弁論大会にも出ました。

【稲盛】自分で望んで出たんですか。

【鈴木】はい。その日のことは今でも忘れられません。3位に入賞したものの、審査員の講評は「論旨もいい、言葉もはっきりしているが、問題は態度だ」と。演壇で話すことはできても、客席に顔を向けられなかったのです。ずっと窓の外を見ていて、雨の降る中、梅の木の枝にスズメが1羽とまっていた光景が今も目に浮かびます。

それでも、少しずつ人前で話すことにも慣れて、高校時代には、推薦されて生徒会長に就任しました。

私には実はもう1つ劣等感がありました。兄弟で私だけが駆け足が遅く、姉たちから、「敏ちゃんはいつも後ろを走っているね」とよくからかわれました。これも克服しようと、陸上部に入り、一生懸命走り込みをするうちに、次第に力がついて、高校3年生のときには、県大会に短距離選手として出場できるレベルにまでなりました。

【稲盛】私も中学生のとき、初めて挫折感や屈辱感を経験しましたが、でも、それがバネになり、私を励まし、背中を後押しし、勉強へと向かわせた。だから、その後の私があるのです。

【鈴木】人間、劣等感があっても、自分でなんとかしようと考え、克服しようと努力すれば、なんとかできるようになる。学んだ教訓は今も残っています。