戻ってくるかもしれないというわずかな可能性
ところが、阪神・淡路大震災の調査でも、原爆投下後の広島や関東大震災、東京大空襲でも死者が幽霊として現れたという挿話は聞かない。
理由ははっきりしないが、こうした幽霊の存在を否定しない東北の感性は、関東以西で一般的な仏教的な感覚とは明らかに異なる。
仏教では、死者は三途の川を渡って死者の国に移るのが本来のあり方であり、魂が現世に留まっているのは、この世に恨みや未練を残したまま成仏できないからで、それを不幸なことなのだと考える。冒頭の幽霊話に寄せられたネット上の感想にも、「死にきれないのでしょうね。気の毒に」と同情・共感する人が多い。
だが、それは現地の感覚とはやや異なる。東北地方では、幽霊は必ずしも否定的な存在と思われてはいないのだ。冒頭のエピソードを語ってくれたドライバーも、「最初は怖くて動けなかったが、今はもう恐怖心はない。また同じように季節外れの冬服を着た人がタクシーを待っていても、乗せるし、普通のお客さんと同じ扱いをする」と言っていたという。そのドライバーも、震災で娘さんを亡くしている。
幽霊を見たという他のタクシードライバーたちも、幽霊を怖がって「もう二度と出てこないでほしい」と言うことはない。もっと温かい眼差しで幽霊を見ている。
どうやら東北の地では、生者の世界と死者の世界の境界は曖昧で、幽霊という中間的な存在も認められているかに思われる。
東日本大震災では、津波にのまれ、遺体のないまま行方不明となってしまったケースも多い。そうした場合、残された家族は対応に困ることになる。遺体のないまま葬儀を行い、お墓を作るのか。戻ってくるかもしれないというわずかな可能性を信じるのか。そうした宙ぶらりんの状態は「曖昧な喪失」と呼ばれている。
今回、論文集を作る過程で私たちが発見したことは、被災地の人々は、自らの曖昧な喪失を大切に抱え続け、終わったこととして自分の中から消し去ろうとはしていない、という事実だった。
おそらく曖昧さを温存することこそ、愛する者を失った痛みへの、この地の人々の対処法なのだろう。「幽霊を見た」という多くの人が語る体験も、そこからきているのではないか。震災で残された人々は、「消さずに残すことに意味があるのだ」という答えを、すでに自らの中に持っているのではないだろうか。