震災学とは、死生観を問うことである。
震災は行政においては、経済マターとして扱われがちだ。為政者が言う「復興の加速」は、瓦礫の撤去や住宅の建設、港湾の再整備など形や数字で示されるものである。が、それだけでは復興は完了しない。真の復興とは人の心の回復であるはずだ。1人ひとりの心が癒やされ、地域のコミュニティが復活することで初めて社会学的意味での復興がなったといえる。しかし、それをどう加速するのか。死生観から問わなければ、復興の定義すら定まらないのだ。
私が「震災学」という言葉を使うようになった理由はもう1つ。東日本大震災から5年、被災地や被災者に対する世の中の視線が明らかに冷めたものになってきたことがある。
NHK『被災地からの声』という番組がある。NHK仙台放送局製作による東北地方向け地域情報番組で、東北では週に1回、全国でも月に1回放送され、東日本大震災の被災者の生の声を取り上げている。
しかし最近、この番組を全国放送で流すと、「いつまで放送を続けるつもりか。その後にもたくさんの災害があったのに、なぜ東日本大震災ばかり取り上げ続けるのか」「文句ばかり言っているから、復興が進まないのだ」といった苦情や非難が寄せられるのだという。
通信社に対し「震災の記事は、もう配信しなくていい」と伝えた西日本の新聞社もあるという。
ある意味で当然の反応ではある。が、それでは震災の記憶は一時的に消費されるだけで終わってしまう。
『呼び覚まされる霊性の震災学』は、「現代の『遠野物語』」と形容されることがある。『遠野物語』が記された明治後期の頃から、東北地方では「座敷わらし」のような幽霊現象は当たり前のように語られていた。現代でも、東北地方で聞き取り調査をしていると、「幽霊を見た」という話がしばしば出てくる。