「震災の記事は、もう配信しなくていい」
このとき意外だったのが、証言を寄せてくれた被災者の方々から、「ありがとう」「おかげで気持ちが楽になった」と告げられたことだった。渡された本を震災で亡くなった故人の仏前に供えた方もいた。その反応は明らかに、聞き取り調査の場合と異なっていた。
慣れない文章を書かされて大変だったはずの被災者が、なぜ私たちに礼を述べたのか。出版後、私は改めて証言者たちを訪ね、この記録がどのような影響をその人たちに与えたかを尋ねた。
そこでわかったのは、慣れない文章を書き、客観性を保つための書き方について調査者からアドバイスを受けることを通じて、遺族たちが罪の意識で混乱していた心を整理し、自らを客観視することができた、ということだった。
たとえば津波で父を亡くしたある人は、「自分がプレゼントしたジャンパーが、水を吸って重くなったことで、父を溺れさせることになったのではないか」という思いに苦しんでいた。しかし震災前後の状況を文章化する作業を通じ、自分の行動と父の死に関係がないことが理解でき、それによって心が楽になったという。辛い経験を書き残すという作業には、心を整理する機能があったのだ。
この震災では、被災者の心的外傷が注目されていた。だが近しい家族を亡くした被災者には、「カウンセリングには行きたくない」という人が少なくなかった。
多くの死者が出た災害でしばしば見られる現象として、生き残った人たちが、自分だけが助かったことに対し、罪の意識を抱いてしまうという問題がある。
とりわけ東日本大震災では、死者の多くが津波によるものであり、地震の発生から津波が到達するまでに数十分の時間があった。その分、人的要素が介する余地が大きく、生き残った人には「あのとき、ああしていれば救えたのでは」という後悔の念が生まれやすい。
この点、死者の多くが建物倒壊による圧死で、人が介在する余地がなかった阪神・淡路大震災と対照的だ。
そうした人たちにとっては、「カウンセリングによって自分が楽になる」という考えそのものが、罪の意識を刺激する。心の痛みがなくなるということは、死者のことを忘れてしまうことにつながるからだ。
しかし自らの体験を文章に書き、それを本にまとめることは、「忘れること」ではない。むしろ忘れないよう、形として残すという作業である。それは心の痛みを消すのではなく、いわば痛みを温存しながら、それと共存していくという、カウンセリングとは異なる新たな道だった。
その事実に気づいたとき、私は震災の死者に関わる心の問題を、研究テーマとして取り上げようと考えた。